安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「こうしたらいいよ」は、他人事になってしまいます(bottom_lineさんのコメント)

(中略)
安心問答では「阿弥陀仏に救われてください」と締めくくられていることが多いが、そう言われると「ではどうすれば救われるの?」と思ってしまうのが人間の感情というもの。
この「どうすれば」が実はくせもので「そのままです」とか言われるよりも「○○しなさい」と言われるほうがはるかにわかりやすい。
そこにつけこんだのが彼だ。
彼はそこに善のすすめというベクトルを示した。善のできない自分だと知らされるために一生懸命善をしなさいという若干意味不明の論理で(彼の会で言うところの)善をすすめた。
結果、私は精神を病むまで「だめだ」「だめだ」「だめだ」と機をみて嘆きつづけてきた=どんどん法に目がむかなくなり、阿弥陀仏の本願から遠くとおくなっていった。

彼の話を聴くとこうなるというサンプルが今の私だ。(というふうにこのエントリを読みましたがだいたい合っていますか?)(bottom_lineさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100111/1263159706#c1263301698

回答します。
サンプルという言い方が適当かわかりませんが、bottom_lineさんは真面目に実行された結果、大変苦しまれたということには同意します。
方法手段を、相手に示すというのは、それは「その方法を実行せよ」ということにどうしてもなってしまいます。
「だめだ」「だめだ」と自分に言い続けることは、大変苦しいものです。その苦しさが、「苦しくなければ求道とはいえない」「楽して救われるわけがない」という論理で正当化されています。
阿弥陀仏の大慈悲心からいえば、私はすでに苦しみ悩みの凡夫であります。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。(善導大師・観無量寿経疏・玄義分

仏の大慈悲は苦ある人にかかり、常に苦しみに沈んでいるものをひとえに哀れに思われています。そこから何とか救おうという勧めがあるのです。また、水に溺れているような人がいれば、真っ先に救うために飛び込むのです、岸上の人がどうして救わないことがあるだろうかと言われています。

救いを求める人に、手段を勧めるというのは、水に溺れている人に泳ぎ方を教えるようなものです。
溺れている人に向かって「まず体の力を抜きなさい、それからこうやって手を動かして、息継ぎをして………」と教える人は、溺れている人の苦しみが理解できていない人ではないかと思います。
仮に岸の上から、溺れている人に向かって「おーい、こうやって泳げよー」と声を上げて呼びかけている人がいるとしたら、その人をどう思うでしょうか。「慈悲深い人だなぁ」とは思えません。
「早く助けなさい」と言うのではないかと思います。

大悲とは、相手の苦しみ悩みに共感し、痛みを共にする心です。大悲があればこそ、飛び込んで泳いで助けに来て下さるのが阿弥陀仏です。こうしたらいいよ、というアドバイスは他人事になってしまいます。

「善のできない自分だと知らされるために一生懸命善をしなさい」というのは、溺れている人に「溺れている自覚を持て」といっているようなものです。溺れている人にとって必要なのは「溺れている自覚」ではなく「救われる」ことです。

阿弥陀仏の呼び声とは、「こうやって泳げ」ではなく、「そのまま救う」なのです。

されば「阿弥陀」といふ三字をば、をさめ・たすけ・すくふとよめるいはれあるがゆゑなり。(御文章2帖目15通・九品・長楽寺

といわれている通りです。「をさめ・たすけ・すくふ」です。「ダメだ・もっと・がんばれ」という声援ではありません。
横で頑張れというのは、マラソンや、駅伝ならそれでもいいでしょうが、溺れている人にいう言葉ではありません。溺れている人には声援はいりません、ただ助けることが必要なのです。
だから阿弥陀仏は、「おさめ、助け、救う」というお姿そのままに救って下されるのです。現実として働いておられますから、ただ今救われます。