安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

求道というマラソンのゴールに待っておられる阿弥陀仏ではありません・立撮即行(頂いた質問)

お題へのコメントは、18日(日)中に頂いたコメントで、一度まとめようと思います。まだ募集しておりますので、コメントをされる方はこちらへ

メールで頂いた質問について、回答いたします。

どうしたら、救われて当然の本願という地点に立てるのでしょうか?思える時があってもすぐ「無理そう。まだまだ」と戻ってしまいます。
苦しいばっかりで、私には無理そうという気持ちが心の八割方です。本当の求道は始まりそうもありません。(頂いた質問)

回答します。
阿弥陀仏の救いを求めていても、いろいろと心がいったりきたりするのが私たちです。
「よーし頑張ろう(救いが近い)」と思うときもあれば、「まだまだ阿弥陀仏の救いは遠いな」と思うときもあります。

そんなときは、何を基準に阿弥陀仏の救いを考えているかを考えてみられたらよいと思います。
どうしても、自分の心の強弱で、救いが近いか遠いかを判断して、元気になったり、やる気を失ったりしてしまいます。
求道というのは、マラソンとは違います。やる気になって早く走れば、それだけゴールに早くたどり着くとか、やる気を失ってスローダウンすればゴールに到着するのが遅くなるということはありません。

阿弥陀仏は、はるか先のゴール地点で待っておられるのではありません。
頑張って走って来たら、南無阿弥陀仏を与えるということではありません。すぐに私の元へ駆け寄られて、弥陀の浄土へ連れて行くぞという仏です。
これを「立撮即行」といいます。
その御心を善導大師は、このように教えられています。なぜ阿弥陀仏が仏のさとりを開かれているのに、他の仏のように蓮台におすわりになったままで人々に対応されないのかという問いに対して以下のように答えられています。

これ如来(阿弥陀仏)別に密意ましますことを明かす。ただおもんみれば娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦あひ焼く。ややもすれば違返を成じ、詐り親しみて笑みを含む。六賊つねに随ひて、三悪の火坑臨々として入りなんと欲す。もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、業繋の牢なにによりてか勉るることを得ん。この義のためのゆゑに、立ちながら撮りてすなはち行く。端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり。(観無量寿経疏・定善義

(大意)
阿弥陀仏が座っておられないのは、特別に深い御心があったからです。よくよく考えて見ると、この娑婆世界は苦しみの世界です。いろいろな悪人がおり、四苦八苦に苦しめられて、思うようにならないことばかりが起こってくる。煩悩によって、地獄・餓鬼・畜生の火坑にいまにも堕ちようとしている。もしいま立ち上がって、迷いの私たちを救いに行かなければ、悪業にしばられて、三悪道の牢屋から離れることができないでしょう。このために、阿弥陀仏は、立ったまま私をつまみ取られて浄土へ連れて行かれるのです。座って相手に応じるに及ばないからです。

やる気があっても、なくても、阿弥陀如来から見られれば、私は水に溺れているようなものです。そんなものは、真っ先に救うのが阿弥陀仏の大慈悲であります。これを「救急の大悲」ともいわれます。

実際に溺れている者に、ここまで泳げ、もう少しだと励ましておられるのではありません。現に、いま救助しようと働いておられるのが阿弥陀仏です。
救いを先に思う悪人を目当てに、直ちに救うと呼びかけておられるのです。

必ず阿弥陀仏は助けて下さいますので、ただ今阿弥陀仏に救われてください。