安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

追記:「救われたいと思う」と「救われると思う」の違い

「阿弥陀仏の本願が、今自分に働きかけて下さっていることを、いつもどう偲ばせていただけばいいのでしょうか。」(香取さんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)の追記としてかきます。
コメントをくださった香取さんは、「本願に救われたいと思って」いろいろと悩んでおられるとのことでした。

前回のエントリーを書いてからしばらく考えていました。それは「救われたいと思う」という言葉についてです。「救われたいと思う」は、その人の「願望」「意思」「意欲」を表す言葉です。しかし、法において「救われる」ということが必ずしも入らない言葉です。


「救われたいと思う」という人の中にも、以下の3通りの人が考えられます。

  1. 「私は必ず救われる」前提で、「救われたいと思う」
  2. 「救われるかどうかわからない」前提で、「救われたいと思う」
  3. 「救われる可能性は限りなくゼロに近い」前提で、「救われたいと思う」

それまで聞いてきた話の影響もあるとは思いますが、(3)は全くの間違いです。そもそも阿弥陀仏の本願は、私をただ今救う本願ですから、「救われる可能性が限りなくゼロ」ということはあり得ません。

(2)については、「救われる法」と聞いた上でもどうなるかわからないと思っているのですからこれは、疑いの心です。それはそのままうち捨てて本願を聞いてください。

最後に(1)のような心になれば救われるのか?と聞かれれば、答えはノーです。しかし、「救われる可能性が限りなくゼロ」とか「救われるかどうかわからない」というのは、全く法に目が向いていません。

「救われる可能性がゼロに近い本願」や「救われるかどうかわからない本願」に向いたところで、それは阿弥陀如来の本願ではありません。自分で作り上げた妄想の本願ですから、絶対に救われません。

「救われると思う」のは、「救われる法」があるからです。
「救われないかもと思う」のは、「救われる法」と思っていないからです。だから、善をしなければ救われないというような話に簡単に影響されてしまうのです。

阿弥陀仏は「ただ今救う」と本願を建てられました。それを、親鸞聖人はそのまま教えていかれました。親鸞聖人は「救われる可能性はほとんどないけど、ほかに救われる法がないから聞け」と言われた方ではありません。

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(教行信証信巻_大信釈)

http://2jq.pp.sl.pt

ここで「真実の信楽まことに獲ること難し」と言われているのは、あくまで「自力では絶対に獲られない信」という意味です。「救われる可能性が限りなくゼロ」という意味ではありません。
そのため「如来の加威力によるがゆえなり」「大悲広慧の力によるがゆえなり」といわれています。阿弥陀仏のお力によるから、私が仏のさとりをひらくことができるのです。これは法の話です。

私が「できる」とか「できない」とかいう予想の話ではありません。
ただ今救う本願にただ今救われてください。