安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

忙しくても、心がかからない私でも救うという本願です(nowhereさん、maryさんのコメント)

nowhreさんと、maryさんからコメントを頂きました。お尋ねの内容が似ていたので、一つのエントリーで書きます。

(中略)
弥陀の救いより大事なものがいっぱいありすぎて、「ただ今」をずっと後回しにしています。つまり後生の一大事に全くこころが掛かっていないのです。
そんな自分をも済って下されるのが阿弥陀仏だからと、念仏称えても「ただ今」との距離感は縮まりません。
済われた後の「ただ今」と、済われる前の「ただ今」に、越え難い距離を感じています。(nowhreさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100108/1262907909#c1263002018

(中略)
ただただやるべき事に追われて、やっと一息つけるとき、はっとわれに返って、阿弥陀様の救いについて考えます。
救われた人が「阿弥陀仏のことを忘れがちなのが申し訳ない。」と言われるのを、何回か聞いたことがあります。
信後の人の忘れがちが許されることなら、信前の人だけは「忘れているようでは救われない。」「忘れている時間の長い人は救いがおそくなる。」ということはないと思うし、そうでなければ、忙しい人は救われなくなってしまうと思います。
「生活に追われて、忘れがちの私でも救っていただけますか?」と阿弥陀様に向かって問いかければ「救うよ。」と答えられと答えられると思うのですが・・。(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100108/1262907909#c1263031408

お二人とも共通している部分は「阿弥陀仏に心がかからない、思えないときが多いけれども救われるでしょうか?」ということだと思います。
回答しますと、救われます。

「阿弥陀仏に心がかかって救われる」のでもなければ、「阿弥陀仏の事が思えるようになって救われる」のでもありません。
「て」の付け所が、私ではないのです。「南無阿弥陀仏によって救われる」のであり「阿弥陀仏の本願力によって救われる」のです。

私は何によって救われるのかということが一番大事なところです。私の心の変化によって救われるのではありません。南無阿弥陀仏の一人働きで救われるのです。
私が念仏称えたという行為によってすくわれるのでもありません。称えさせられている南無阿弥陀仏によって救われるのです。
昔ある同行が「今までは、これでこれでと思いしに これではのうて あれで助かる」と喜んだという話があります。
「これではだめ」「こんな心では往生出来ない」と自分の機をみて嘆く、その「では」がよくありません。「これでは助からない」「これで助かる」と思っていても、自分の機(これ)が往生させる力があるのではありません。阿弥陀仏の本願力(あれ)で往生させていただくのです。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(歎異抄1章

と歎異抄にあるように「弥陀の誓願不思議」によって助けられるのです。私が弥陀を思えるとか思えないということで決まるのではありません。
あくまでも弥陀の誓願であり、南無阿弥陀仏の働き一つでただ今救われます。