安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「かなしむな」「なげかざれ」の教えなので、機をみて嘆くのではありません(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

南無阿弥陀仏の働き一つで救われるのであれば、
「これではだめ」「こんな心では往生出来ない」と自分の機をみて嘆いてもよいように思います。
よくないとはどういうことなのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100110/1263128142#c1263134159

回答します。
よくないというのは、人にもよりますが機をみて嘆いているとだんだん法に目がむかなくなるからです。
仰るとおり南無阿弥陀仏の働き一つで救われるので、自分の機をどれだけ嘆いていても、それが原因で救われないということはありません。やはり、法に目がむかなくなってしまいがちであるということころが問題です。

親鸞聖人も、「これではだめ」「こんな心では往生出来ない」という人に対して、南無阿弥陀仏がありますよとご和讃で教えておられます。

無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ(正像末和讃36

無明長夜の灯炬について、親鸞聖人は「常のともしびを弥陀の本願にたとへまうすなり。常のともしびを灯といふ。大きなるともしびを炬といふ」と教えておられます。
智慧の眼がくらいと悲しんでいるのは、自分の機をみて「こんな心では助からない」と嘆いているのです。

「こんな阿弥陀仏が思えないことでは」「こんな続かない心では」「こんな弱い心では」と思いますが、阿弥陀仏の本願は私を常に照らす大きなともしびなのです。また、灯炬が私を照らし、救って下さるのです。自分の目で見てくらいくらいと悲しむ必要はありません。
「先が見えない」、「いつ救われるのか」と暗い夜道を一人ゆくような寂しさを感じている人に言われているのです。先が見えない不安は、自分の目で予想が立たないことから来る不安です。どれだけ目をこらしても、暗い夜道は自分ではわかりません。南無阿弥陀仏の灯炬が照らして下されるのです。

阿弥陀仏の事が思えない浅ましい者とか、毎日毎日仏法のこと以外に心がかかる日暮らしをしていると悲しむ必要はありません。罪障はどれほど重くとも必ず救う力が阿弥陀仏の本願にあるのですから、生死大海を渡して下されるのです。
罪障が重いと嘆くのは、自分の心をみて、これでは浄土へわたれないと思う心です。本願の船は、重さは関係ありません。人間の背中に乗るならば、自分の重さは何キロで、相手の体格からするとちょっとこれは重いのではないかと計らいますが、大きな船にのるときに自分の重さを気にする人はありません。
重さを気にする人は、自分で泳いで渡るつもりのひとです。

常に法を仰ぎ、阿弥陀仏の本願力にただ今救われます。
大事なのは、機をみて嘆くことではなく法を仰ぐことです。