安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の救いは待つのではないという理由について(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私はまだ救われてはいないのですが、
どうしたことか、「阿弥陀仏は現在ただ今救って下される」というのが本当で、
それを否定する心は出てきますが、すべて捨てものであると、分かると言いますか確信のようなものがあります。
私も最近まで「待つしかない」かなと思っていたのですが、
「待つ」というのでは今の救いにならないので間違いだと分かりますね。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091219/1261231843#c1261494318

待つというのは、確かにただ今の救いにはなりません。
理由は2つあります。
1つは、「待っている」のがただ今で、救われるのがその先になってしまいます。
待てば海路の日和ありという諺はありますが、阿弥陀仏の救いに関しては当てはまらない言葉です。待てば海路の日和ありでは、今は救われないからです。

もう1つは、無常がくれば、無常が「ただ今」です。死んでは救われませんので、ただ今救われることになりません。
そのため二河白道の譬えではこのように教えられます。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。(教行信証信巻より

東の岸の人は、その岸で待っていなさいとは言われません。「ただ決定してこの道を尋ねて行け」「もし住まらばすわなち死せん」と勧めておられます。
西の岸の人は、「ただちに来れ」といわれています。

西の岸の人は、阿弥陀如来を喩えておられるわけですが、「直ちに来れ」のおよび声は、全て阿弥陀仏だという点で私のすることはありません。待つということも、そこに差し挟むことはいりません。直ちに来れの、願い通りに救われると言うことです。
待ってなさいといわれないのは、「もし住まらばすなわち死せん」からです。阿弥陀仏の救いもただ今なら、無常もただ今のことです。阿弥陀仏の本願は、浄土に往生させるという願であって、この肉体の無常をしばらく止めるという願ではありません。

救うまでは私の寿命を延ばして死なせないということではありませんから、直ちに来れとよばれているのです。