安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「今救われなければ、未来永遠救われる時はない」について(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「今救われなければ、未来永遠に救われる時はない」と書かれてありました。
何となくわかるのですが、すっきりはっきりと「その通り!」とまではなりません。
そのところをもう少し詳しく聞かせてください。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090906/1252246029#c1252278986

回答します。

「今救われなければ、未来永遠に救われる時はない」については、「今より先、未来に救われようと思うのは間違いであり、今より未来に救われることはない」ということです。

たとえ、どれだけ「今の今救われるとは思えない」といったところで、実際に救われるのは、その人にとって今だということです。

たとえて言えば、「明日」という日はあっても、明日になればその人にとっては今日なので、「明日に生きる」ことはできません。

同様に、「明日救われる」ということがあっても、明日になれば、その人にとっては今日なので、「今日救われる」のであって「明日救われる」のではありません。
ただ今救う本願に対して、「ただ今ではなく、いつか」と思う心が、救いを自分で遠ざけているのです。

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。(口伝鈔)

このように、短命の根機をお目当てに建てられた本願ですから、ただ今の一念でなければ、本願に救われる時はありません。

「○○となったら」という思いは、ただ今の救いを先延ばししている心です。
「○○となっていないから」という思いは、ただ今の救いに条件をつける心です。

これらの心が、救いを自ら遠ざけている心です。
思ってから救われるのではなく、ただ今の救いです。ただ今の阿弥陀仏の救いに向かうから、追い詰められて逃げていく心になるのです。

前回のエントリーの関係で書きますと、何が善巧方便かという是非を論じている間に、ただ今救われることが大事なのです。
何かの方便の、そのまた先に阿弥陀仏の救いをおいていれば、「阿弥陀仏の救いは先にあるのが当たり前」になり、逃げる心も、先延ばしする心も何もありません。

何も分からないまま、無常が来るまで疑問も起きないかもしれません。

「今救われない大前提」を乗り越えるのは、分かっていてもなかなか難しく思われるかも知れません。しかし、ただ今救われるのが阿弥陀仏の本願です。