安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「気づき」「合点」は自力で捨てものなのでしょうか?(おすぎさんの質問)

おすぎさんより質問を頂きました。
有り難うございました。

「気づき」「合点」は自力で捨てものなのでしょうか?(おすぎさんの質問)

仏法を聞くことがあり、阿弥陀仏の本願とはどういうものかを聞いていきますと、いろいろと気づくことがあります。また、ただ今の救いとはどういうものかと合点するところもあります。

ここでいう「気づき」や「合点」とは、阿弥陀仏の本願についてのことです。お聖教の御文を暗記しているとか、説法の内容を正確に記憶していることではありません。
実際に自分が救われるかどうかは、阿弥陀仏の本願によるのであって、因果の道理を概念的に理解したことではありません。

実際に阿弥陀仏の本願に向き合った上での気づきや、合点はあります。それ自体は、悪いことではありませんが、気づいたことや合点した「から救われる」と、気づいたことや合点したことをあてちからにする心が自力であって、捨てよといわれているものです。捨てるのはその自力の心です。

もちろん、気づいた、合点した、聞いた、覚えた、理解したということは、阿弥陀仏の救いの足しにはなりません。問題は、それをあてにする心です。
これだけ聞いたのだから、あとは救われるだけ、これだけ分かったのだからあとは救われるだけという考えになりますが、「自分のほうの準備はもう終わった、あとは阿弥陀仏の番ですよ」と思う心があれば、それは先手の本願に対して、自分が先手を打った気になって阿弥陀仏の本願を後手にしてしまう心です。

あてにするのは阿弥陀仏の本願であって、先手も阿弥陀仏の本願です。
南無阿弥陀仏の六字を実際に聞かせていただき、救われるのがただ今の救いです。