安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

早く救われる人と、そうでない人違いを考えると言うこと(Rudelさんのコメント)

一生懸命善根功徳をつんで宿善を厚くして、救われる・・・という教えではなく、
ただ今の無条件のそのままの救いと、いつも教えていただきます。
ですが早く救われる方もいればそうでない方もおられるのはなぜでしょうか。
過去世の行いや今生での聞き方が人それぞれ、まちまちだからでしょうか。
それとも、全く阿弥陀仏のお計らいで、私たち人間(凡夫)には全くわからないのでしょうか。
ただ今僕を救って下されるのが阿弥陀様の御心と、頭ではわかっていますが、
一刻も早く救われたいのに、なかなか救いにあずかれないのは、なぜだろう、どうしたら・・・という気持ちがいつもあります。
「どうしたら」ではないと教えていただきますが、困っています。
自分の心(機)を相手にするというか、こうした考えをしてはやはりダメなのでしょうか。』
(Rudelさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255874318

回答します。
早く救われるひともいれば、そうでない人もいるというのは、どういう事かについてですが。求道が、複数人数での競争のように思われているからではないかと思います。
マラソンならば、早くゴールする人もあれば、遅くゴールする人もあります。しかし、競技にたとえるならば、求道は競争ではなく、一対一の相撲のようなものです。
100人の人がいれば、100人で一斉にスタートを切るマラソンではなく、100の土俵でそれぞれ相撲をとっているようなものです。土俵で私と組んでいるのは阿弥陀仏です。

御一代記聞書の「宿善も遅速あり」といわれているのは、マラソンのようにゴールタイムに早い人と遅い人が、1番から100番まであるということではありません。
100の土俵で、早く勝負がつくところもあれば、遅く勝負がつくところがあるということです。

一、陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信・不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。(御一代記聞書

ここでいう「宿善」とは、「信心決定」のことです。
(大意)陽気の花は早く花が開く、日陰の花は遅く咲く。信心決定するにも、遅速がある。だから、已今当の往生がある。阿弥陀仏の光明にあいて、早く開く人もあり、遅く開くひともある。とにかく、信心獲得した人も、そうでない人も仏法を心に入れて聴聞しなさい。

信心決定するのに遅速があるということを、花が咲くことに例えておられます。花が咲くといっても、場所も違えば、種類によって、早さはそれぞれ違います。
夏に咲く花だといって、ひまわりと、朝顔が互いにどちらが先に咲くかという競争はしません。同じひまわり同士でも、花と花がどちらが先に咲くかという競争はしません。それぞれの花は、自分の花を咲かせるために一生懸命で、他と比べて早いか遅いかを気にはしないのです。

相撲にたとえるなら、同じ土俵に100人が上がって誰が一番先に勝つかという競争ではなく、一人一人が別々の土俵で、勝つか負けるかの勝負をしているのです。

花でいえば、隣の花より早く咲くかどうかよりも、自分の花をさかせるかどうかが問題です。
相撲ならば、となりの土俵より早く終わるかどうかではなく、自分の土俵の勝負がつくかどうかが問題になります。

なぜ早い遅いかの違いがあるかといえば、土俵が違うからです。
早く決着のついた土俵があっても、それは私ではありませんし、現に自分は自分の土俵にあがっているので、考えて原因がわかったとしても、意味のないことです。
また、まだ土俵に上がる前ならば、過去の取り組みを研究することも意味が多少あるかもしれませんが、すでに取り組みが始まって相手と組み合っているときには、目の前の相手にぶつかるしか有りません。

過去の自分の三業をあれこれ考えても、すでに行事の軍配が上がっているのですから、目の前の阿弥陀仏にぶつかるしかないのです。また、相手を見ずに、自分の手足や体調のことを考えていては相撲になりません。

救われない原因を探し始めるのは、目の前の阿弥陀仏に向かっていないからです。
相撲で謂えば、土俵に上がる前のように思っておられるかも知れませんが、すでに行司の軍配は上がり、阿弥陀仏とぶつかりあっているのです。

だから、御一代記聞書の後半に「とにかく仏法を心に入れて聴聞せよ」と書かれているのです。
となりの土俵の様子を気にするのではなく、自分の土俵で相撲をとれと言われているのです。あなたが聞く相手は、すでに救われた人でもなく、自分自身でもなく、阿弥陀仏です。