どうしたら信心決定できるかと考えるのはよくないと聞きますがなぜでしょうか?悩んでこその聞法求道ではないでしょうか?(頂いた質問)
どうしたら、どうしたらと心配したり悩んだりすることは決してよいことではありません。
お尋ねの文章から理由を二つ述べます。
- 心配するのは私ではなく阿弥陀仏の仕事だから
- その阿弥陀仏の仕事はすでに完成しているので、今更私が心配してもすでに時機を逸しているから
1.心配するのは私ではなく阿弥陀仏の仕事だから
私が修行をして浄土往生の身になるということならば、「どうやったら浄土に往生できるのか」という心配や悩みも大いに意味のあることでしょう。しかし、阿弥陀如来の仕事ですから私が心配しても意味のないことです。また、心配した方が早く救われるという本願でもありません。
2.その阿弥陀仏の仕事はすでに完成しているので、今更私が心配してもすでに時機を逸しているから
阿弥陀仏の本願が、まだ成就していない時機だと仮にした場合は、私が心配するのもわからないではありません。しかし、すでに成就しているのですから、私から阿弥陀仏に「はやく本願を成就してもらえないでしょうか」と心配するのは時機が外れています。
現在は、阿弥陀仏から私へと本願力によって南無阿弥陀仏を差し向けておられています。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。(教行信証行巻・六字釈)
http://goo.gl/nf036
阿弥陀如来は「すでに」本願を起こされて、私が浄土に往生する行を私に与えて下さっています。
そのため、私から阿弥陀仏という方向の考え方は全く意味がありません。阿弥陀仏から私に、ただ今差し向けられているのが本願力ですから、阿弥陀仏から私へなったときには私の方で心配したり、悩んだりする意味はありません。
また、悩んでこそ求道の出発点とか、やっとスタート地点に立っているというような発想は、根本的に私から阿弥陀仏という方向でしか考えていないので、その考えは直ちに捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。