安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「たまたま行信を獲ば」と聞きますが、なぜ「たまたま」なのでしょうか?宝くじがあたったようなものが信心を獲ることなのでしょうか?(頂いた質問)

「たまたま行信を獲ば」と聞きますが、なぜ「たまたま」なのでしょうか?宝くじがあたったようなものが信心を獲ることなのでしょうか?(頂いた質問)

お訊ねのお言葉は、親鸞聖人の教行信証総序に出てくるお言葉です。

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ(教行信証総序)

この「たまたま」は「遇」と言う字を書きます。遭遇の遇です。
思いがけずに出あうという意味です。


親鸞聖人は、「行信を獲」たことを「たまたま」と言われています。それは、「行信を獲る」(信心を獲る・阿弥陀仏の救いにあう)ことは、思いがけずに出あうからです。

私たちは、救いとか信心と聞くと何かを求めていって求めた先に獲られるものと考えてしまいます。しかし、こうして行けば救われる、こう進めば信心を獲られると考え、その通りに「救われた」「信心を獲た」とならば「たまたま」とは言いません。なぜなら、予想通りの結果を獲たからです。


その意味では、宝くじが当たったようなものでもありません。なぜなら、宝くじが当たった人は「宝くじがあたることを予想して」購入しているからです。確かに、当選確率は低いものですが、「思いがけず」ということはありません。「当たるかも」と予想をして、その通りになるのですから当選した人はその時とて喜びます。

阿弥陀仏の救いは、そのような「私が求めた結果獲られた」というものではありません。なぜなら、私が求めるより先に阿弥陀仏は、本願を成就されて私に救いを与えようとされているからです。しかし、私は「与える」と救いを差し向けられる阿弥陀仏の仰せに背を向け、「自分が求めて救われよう」としています。「求める」というのは、現在そのものがらが無い時に使う言葉です。例えば、車を運転していてガソリンスタンドを求めるのは、ガソリンがもう車にない時です。ガソリンが満タンの時は、ガソリンスタンドを求めません。


そのように、私が「救いを求める」「信心を求める」と考えるのは、阿弥陀仏がそれを現在私に差し向けられるていると思っていないからです。阿弥陀仏から見れば、私は背を向け本願力回向から逃げているようなものです。ですから、親鸞聖人は「摂取」のお働きについて「ものの逃ぐるを追はへ取るなり」と言われています。

「あの方向に進めば」と思っていた私の後ろから追いかけて救って下さるのですから、「想像通り」ではありません。「求めねばならない」と思っていた救いが、「求めていた方向の延長上ではないところ」から与えられるので、「たまたま行信を獲ば」と親鸞聖人は仰っています。