安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自力の心をひるがえすとは(YGMさんのコメント)

YGMさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

>罪を罪と知り、自力の心をひるがえして、阿弥陀仏の本願をたのむという回心があれば、
>阿弥陀仏の浄土に往生することができます。

宿善が厚くなくても、罪を罪と知り、自力の心をひるがえして、阿弥陀仏の本願をたのむという回心があれば、阿弥陀仏の浄土に往生することができますでしょうか?
どうやったら自力の心をひるがえせますでしょうか?(YGMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091001/1254401251#c1254466075

回答します。
最初に、「宿善が厚くなくても」という言葉についてですが、どういう意味合いでこの「宿善」という言葉を使っておられるかは、文脈から類推すると、「現在の自分の心境における聞法心の強弱」ではないかと思います。

そういう意味だという前提で回答をいたしますと、質問は以下のようになります。
現在自分には、ここ一つ求めねばとか、海山超えても法を聞こうと言うような燃え立つ心はないのだけれども、「罪を罪と知り、自力の心をひるがえして、阿弥陀仏の本願をたのむという回心があれば、阿弥陀仏の浄土に往生することができますか?」

YGMさんのお気持ちからすると、阿弥陀仏に救われるには

  • 燃え立つような聞法心が起きていなければならない
  • 聞法心が無くても、自力の心をひるがえして、弥陀をたのめばよい

ということだと思います。

最初の聞法心とは、阿弥陀仏から起こさせられるものですから、自分の力で強くしようとしたからといって、強くなるものではありません。真剣になろうという試みは、一度や二度は今までにされていると思います。結果的に、真剣になろうとして、なるでしょうか?

自分の心の変化をみつめても救いは予測できない

そこで、真剣になれない自分を責めるのは、方向が違います。自分の心に変化がないことをもって、救われないと思うのは見るところが違います。

聞法心は数値化できるものではありませんが、仮に数値化したとして、先々月が2、先月が4、今月が6と増えたら、自分はそのうち救われるだろうと、いう考えは間違いです。
また、そういう考えがあるので、先々月も救われていない、先月も救われていない、今月も無理だろうと予想を自分で立てるのです。
自分自身が阿弥陀仏に救われることについては、「今までなかった」のは当然です。どれだけ、今まで阿弥陀仏に救われた方があっても、その人にとっては「初めて救われた」ということです。

自分の心の変化を見て救われるかどうかを論じることはできません。別の言葉で言うと、阿弥陀仏の救いを予測することはできません。
過去の自分の心の変化というデータをいくら解析しても、阿弥陀仏の救いを予測することはできません。
そもそも、仏でもない人間に予測できることと言うのはごく限られた範囲のことです。

予測はほとんどできないものという例

一例をあげますと、ビリヤードで、1つのボールを壁に当ててどういう角度で跳ね返るかということについては、1回目の反射くらいは玉のスピードや角度で計算はできます。
しかし、跳ね返る回数が増えるととたんに予測ができなくなります。これは数学者マイケルベリーの言ったことです。(出典:ブラックスワン・下巻)

9回目に跳ね返った後になると、テーブルの横に立っている人の引力の大きさを計算に入れないといけない。そして56回目に跳ね返った後は、宇宙に存在するすべての素粒子についてそれぞれ仮定が必要になるのだ!
(略)
このビリヤードのボールの話は、均質で単純な世界を仮定している点に注意してほしい。人の自由な意志で起こりうる、頭がおかしくなりそうな社会のあれこれさえ考慮していない。(ブラック・スワン[下]―不確実性とリスクの本質より)

単純なビリヤードのボールが跳ね返ることでも予測がつかないのですから、まして、阿弥陀仏の救いを私の心の変化で予測しようとしても不可能です。

阿弥陀仏の救いは、阿弥陀仏による救い

阿弥陀仏の救いは、阿弥陀仏による救いですから、阿弥陀仏に向かわねばなりません。
自分の心のデータをどれだけ集めても、予測不能なのですから、その心の変化がどうあれ、「いつ救われるか」ということを考えるのは意味のないことです。

阿弥陀仏の救いは、真剣になれたら救うというものではありません。煩悩具足の凡夫を、そのまま救うと言うことは、真剣になれないものを救うということです。

自分の心の変化で知ろうとするのでは、「ただ今の救い」ではなく、「未来の救い」です。
今までどうだったか、自分の今のこころがどうであるということは、ただ今救われると言うことと関係がありません。
聞法心が燃えているから救われるのでもなければ、聞法心が弱いから救われないでもありません。

いはんや悪人をや、聞法心の弱い人をや、つまりは関係ない

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。(歎異抄3章)http://wikidharma.org/4ac4999b6eda3

このお言葉を、質問の言葉でいえば、善人=聞法心の強い人、悪人=聞法心の弱い人
つまり、聞法心が燃えている人が助かるのなら、聞法心が弱い人はなお助かりますということです。逆に思うのは、本願の御心に合いません。

自覚としても、聞法心が強いか弱いかは、ただ今の救いと関係がありません。

自力の心をひるがえすのも、阿弥陀仏のお力

次の質問ですが、改めて引用しますと

罪を罪と知り、自力の心をひるがえして、阿弥陀仏の本願をたのむという回心があれば、阿弥陀仏の浄土に往生することができますでしょうか?
どうやったら自力の心をひるがえせますでしょうか?(YGMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091001/1254401251#c1254466075

罪を罪と知らされるのも、自力の心をひるがえすのも、阿弥陀仏のお力によります。

しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみ給いて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候いき。(歎異抄3章

「自力のこころをひるがえす」ことを自分でしてから、「他力をたのみたてまつる」のではありません。
阿弥陀仏のお力で「自力の心をひるがえ」して頂くことを「他力をたのむ」というのです。

どうすれば自力をひるがえすことができるのですか?については、私の方で用意する方法はありません。
「自力をひるがえすのは自分の仕事」と思えば、また自分の心を観察し、データを集め、予測を始めてしまいます。
助ける働きは南無阿弥陀仏にありますから、阿弥陀仏の救いに向かって下さい。
必ずただ今救われます。