安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「善をしなければ信仰は進まない」について、コメント紹介(抜粋)

お題「善をしなければ信仰は進まない」ってどう思いますかに多くのコメントを頂き有り難うございました。

一つ一つのコメントに、いろいろ知らされることがありました。一つ一つのコメント全てになにかこちらで書くには量が多いので、コメント全文は別のエントリーで公開しております。
是非ご一読下さい。

善をしなければ信仰は進まないの、「信仰が進む」とか「進まない」とかいうことについて、皆さんからコメントを頂きました。コメントを読んで思ったことを、エントリーします。
引用したエントリーは、抜粋したものです。全文は、別のエントリー、またはリンク先のコメント原文をご覧下さい。

私も、以前は以下のこすたんさん、ぴーさんのコメントのようなことはよく耳にしました。

しかし、「精一杯、善をした人にしか分からないことがある」とも聞きました。
財施が勧められる時は、「このご縁で、自分の信心決定に対する気持ちを表すのだ」というように言われていました。
(こすたんさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255522235

親鸞会では「信仰」と「宿善」はほぼ同義語で使われたと思います。
宿善まかせなのだから、宿善が厚くならなければ救われない。
宿善とは、過去世の善根だから、善をすればするほど厚くなる。
「善をする」→「宿善が厚くなる」=「信仰が進む」
(ぴーさんのコメント)


このように聞きますと、やはり「善をしていけば、いつかは救われる」というように思ってしまいます。または、段階が救われる間にあるのだというように理解してしまいます。

以下、みなさんから頂いたコメントの中からいくつか紹介します。

また「相当時間がかかるだろうと思うだろうが、何年か、何ヶ月か、何週間かは判らない。宿善まかせだから」(顕真より)ともあったので、いつかはわからないが、聴聞、勤行、六度万行をしていけば信心決定までたどりつけるのだろうと思っていました。このしみ込んだ思いが縁に触れては出てきて、なかなか抜けないんですよね・・。
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255529666

善をして→できないことを知らされて→→→機の深信+自動的に法の深信
という段階を作って、目標を立てて求めやすくしてきました。
なかなか機の深信にならないのは、善をやる力がまだ50だから、あと50やれば・・・という自力が廃らない。
100の力で善をやって、できなければ自力全部廃って=機の深信
こういう考えに基づいて三願転入を聞いてきました。
(YGMさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255564193

ここから、信仰が進むとは、

因果の道理をより深く信じていく過程。
廃悪修善の気持ちがより強くなる過程。
自分の姿がより見えてくる過程。

そして、その状態がより縦の線に向かって進んでいるのが、救いに近い人。
(最後の学徒さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255630284

「信仰がすすむ」ということについて、このように聞いてきた、聞いたことがあるという意見でした。

実際に私も感じたことですが、「善をしなければ信仰はすすまない」と言う言葉どおりに、善を実行して信仰がすすんだという実感がないということです。

皆が頭に思い描くように、悪が知らされたり、後生に驚きが立てばよいのですが、誰に聞いてもそのような人はありませんでした。
「出来るか出来ないか、実行しない人にはどちらもハッキリしない。」と繰り返すばかりでした。
(最後の学徒さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091014/1255520665#c1255630569

実感として、そう感じる人は、どれほどおられるのかという疑問には私も同感です。
「信仰は進まない」と、真実信心を求める上で、やはりマラソンのように、長い距離を進んだ先に決勝点があると思うと、「進む」ことがない以上、決してたどり着けないのではないでしょうか。

「進んだらいつかは」といっている以上は、どこまで「進んだ」としても、その先へ「進む」ことになり、いつまでも「救われた世界」には出ることとができないのではないでしょうか。アキレスと亀のパラドックスのようなものです。

阿弥陀仏の本願は「その地点から進んだら助ける」という本願ではありません。そのまま救う、ただ今救うという本願です。

そうすると、親鸞会でよく使われている、「縦の線と横の線」の話と矛盾するように思われると思います。これについては、次回のお題としますが、コメント募集はまた、後日といたします。