安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の救いは不平等ですか?(徳永さんのコメント)

徳永さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

凡智からすると、今生で救われている人とそうでない人がいることほど、不平等はないように思ってしますのです。この考えの誤りをただしていただければと思います。(徳永さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100809/1281321210#c1281492916

平等か不平等かという問いについては、2つのことが言われていると思います。

  1. 結果の平等
  2. 時間的平等

1の結果の平等については、遅速はあっても必ず救うという本願に偽りはありません。誰でも必ず救われますので、結果の不平等はありません。もし、誰か特定の人物だけは救えない本願であれば、結果の不平等は起きますが、それでは本願がうそになっていまします。

徳永さんが言われているのは、
2の時間的平等がないのでは?ということだと思います。

一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日 陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(御一代記聞書307・註釈版聖典P1332)

「宿善も遅速あり」といわれていますが、宿善とは信心のことですから、信心獲得するのも人により時間的に差があるということです。
そのため「已今当の往生あり」といわれています。すでに阿弥陀仏の浄土に往生している人もいれば、今往生する人もあり、未来往生する人もあります。
昨日阿弥陀仏に救われる人もあれば、今日救われる人もあるということです。

同じ人間と言っても、一人一人違うので、救われるのにも遅速はあります。それは、阿弥陀仏のお働きに差別があるのではありません。おなじ日にタネをまいた朝顔でも、全くおなじ日、おなじ時間に花が開くことがないのと同じ事です。
阿弥陀仏は、私たち一人一人に願を建てられて、一人一人に阿弥陀仏となって私に働きかけておられます。
一人に一仏、一人に一仏となって私を救おうと常に呼びかけられています。徳永さんに呼びかけられている阿弥陀仏は、徳永さんにだけ呼びかけられているのです。私に呼びかけられる阿弥陀仏は、私にだけ呼びかけられているのです。なぜあの人は速く助かったのに、私を早く助けないのだと阿弥陀仏に対して疑問をぶつけてみても、阿弥陀仏のお力や、慈悲に差別があるのではありません。必ず救う本願ですから必ず救われます。

いつ救われるかと尋ねるよりも、ただ今、自力を捨てて弥陀をたのんで救われて下さい。