安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「宿善まかせ」は「過去世に積んだ善根まかせ」ではありません(花さんのコメント)

(中略)
親鸞会では信心決定は宿善まかせと教えていますが、そうではないのですね、では宿善まかせということについて、詳しく教えてくださいと聞かれました。私も少し説明しましたが、詳しく教えてください。(花さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090702/1246529473#c1296434648

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。(御文章4帖目15通・浄土真宗聖典(註釈版)P1188

「宿善まかせ」は、上記の御文章に出てくる言葉です。親鸞会では、この御言葉を「宿善まかせ」だから、「善をせよ」と勧めます。しかし、この「宿善まかせ」のお言葉は、阿弥陀仏のお力まかせという意味が正しい解釈です。

宿善には、以下の意味があります。

宿善ーしゅくぜん
1 【左訓】「むかしの善といふ」→宿善(しゅくぜん)(唯信鈔 P.1353)
2 過去世に積んだ善根(ぜんごん)。獲信のための善き因縁。如来の調育のはたらき。→補註5
3  過去世に積んだ善根(ぜんごん)。 (要集 P.1128要集 P.1148)

http://wikidharma.org/4d4674251c463

大きく分けると、以下の2つになります。

  1. 過去世に積んだ善根
  2. 如来の調育のはたらき。

蓮如上人が「まことに宿善まかせ」といわれたのは、「信心決定」についてのことです。
信心決定は「過去世に積んだ善根まかせ」ではありません。もしそうであるならば、ただ今臨終を迎える人には、善根を積む暇がありませんので救われないことになります。
信心決定は、すべて「如来のお働き」です。

親鸞聖人が、教行信証の総序に

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(教行信証総序・浄土真宗聖典(註釈版)P132

といわれる「宿縁」が、「宿善まかせ」の「宿善」です。
親鸞聖人が遠く慶べといわれた「宿縁」は、阿弥陀如来の長い間の光明のお働きであり、お育てのことをいわれています。「過去に自分があれだけ善根を積んだから救われたのだ」と慶んでおられるお言葉ではありません。

ただ今仏法を聞く心が起きるのは、阿弥陀如来のお働きによるのであって、何か私が実行した結果ではありません。
現在阿弥陀仏の本願を聞こうという心も、阿弥陀仏の光明のお働きによるものです。
「まことに宿善まかせとはいいながら述懐のこころしばらくもやむことなし」と蓮如上人が仰ったのも、人の力で今聞く気がない人に聞く気を起こさせることができるのではなく、すべて阿弥陀如来のお働きによるのだけれども、空しく一生過ぎゆく人を目の当たりにすると何か言わずにおれない心境をいわれたものだと思います。

どうかただ今救われる本願を聞いてただ今救われてくださいと、阿弥陀如来の本願についてお話ししていますが、私が言ったからその人が聞く気になり、救われるのではありません。すべて、阿弥陀仏とその人と一対一の間のことです。
信心決定は、善根まかせではありません。阿弥陀如来のお力一つでさせていただくものです。