安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏に向かうとは(みかみさんのコメント)

みかみさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「阿弥陀仏に向かい、ただ今阿弥陀仏に救われる」ことが、大切なのはわかるのですが、どう向かえばいいのかが、わからないまま、ただ日が過ぎていっております。
目をつぶり合掌して阿弥陀さまのことを念じて、「なんまんだぶつ なんまんだぶつ」と念仏をとなえることぐらいしかできないのですが、このようなことでいいのでしょうか。(みかみさんのコメント)

このコメントについては、林遊さんからもコメントを頂きました。有り難うございました。

回答します。
みかみさんは、おそらく日常生活の中で、阿弥陀仏に向かうということもよく分からないので、どうしたらよいでしょうか?ということでお尋ねになられたのだと思います。

どう向かうかというのは、私の方から言えば、「何をするか」という具体的な行為のことではなく、阿弥陀仏の御心を知るということです。

法座に、とにかく足を運びさえすれば、心はどうあっても阿弥陀仏に向かっていることになるかというとそうではありません。
また、心が散り乱れていても良いから体だけでも良い行いをしようと考えて、法話に足を運んだり、勤行をする人が有ります。行為そのものの善し悪しからいえば、法話に足を運ぶこと、勤行をすることは善いことに違いありません。

問題は、心です。自分の行を問題にして、善い行いをしなければならないと思えば、阿弥陀仏に向かっていることになりません。

そこで、南無阿弥陀仏と念仏を称えることしかできないとコメントにありましたのは、おそらく以下の御文章のお言葉からでてきた考えだと思います。

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。(御文章5帖目11通・御正忌

こちらでいわれているように、「阿弥陀仏にむかうといってもわからず念仏を称えている」のは、「なにの分別もなくただ称名ばかりをとなえへ」ていることと同じではないかと思われているのだと思います。
ここでいわれている「人間に流布してみな人の心得たるとおり」とは、阿弥陀仏の御心を知らなくても、呪文のように「なむあみだぶつ」と称えたらよいと思っているということです。
本来は、他力の信心を獲得するということと、「南無阿弥陀仏の六字のこころをよくしる」ということは同じ事です。
念仏を称えるといっても、南無阿弥陀仏の六字の心をよくしるということです。
なむあみだぶつと称えるぐらいと思われるかも知れませんが、阿弥陀仏の働きにより称えさせられているのですから、大変尊いことなのです。

そして、念仏称えさせて下される、南無阿弥陀仏の六字の心を知るというのが、阿弥陀仏に向かうということです。「六つの字のこころ」といわれるように、「こころ」を知るということです。
平たくいえば、ただ今救うぞという心であり、「直ちに来たれ」と呼ばれているということです。

阿弥陀仏の方からいえば、既にこちらを向いて常に念じておられるのですから、その心を感じて、知るということです。