安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「善をしなければ信仰は進まない」ってどう思いますか?コメント募集

今回のエントリーはいつもと趣向を変えて、みなさんのご意見をコメントで募集したいと思います。
「お題」とタグをつけましたが、不定期にみなさんがこのことにどう思われているか「お題」を出して、コメントを公募いたします。このブログはコメント承認制ではありませんので、どんなコメントでも、表示されます。

今回のお題は「善をしなければ信仰は進まない」ってどういう意味?とします。

最近何度か耳にした質問です。複数の方から頂いたものをまとめると以下のようなものです。

「善をしなければ信仰は進まない」と聞いて、善をしなければ助からないと思うのは、聞き間違いだと聞きました。
また、親鸞会では縦の線と横の線を書いて、横の線を進んで、縦の線で救われるという話をされます。横の線を進むのは時間がかかるけれど、縦の線は一念だから、その一念の救いまでは時間がかかるのだという説明も聞いたことがあるのですが、いかがでしょうか?(頂いた質問)

この「善をしなければ信仰は進まない」というのは、親鸞会館での行事、親鸞会の機関紙「顕真」によく出てくる言葉です。支部活動の現場でもよく使われています。

この言い方も一つの、固定したやりとりの中で使われるものです。

「善をしなければ信仰は進まない」の用例

  1. A「善をしなければ信仰はすすまない」
  2. B「では、進んだらどうなるんですか」
  3. A「進めばわかります。だから進みましょう」「実行しない人には何もわかりません」
  4. B「では、どうすれば進むのでしょうか?」
  5. A「それには、聴聞、勤行、六度万行の実践です。まずは、実践です。がんばりましょう。善をしなければ信仰は進みませんからね」(→2へ戻る)

大まかにいえば、このように使われることが多いとおもいます。
上記の例で、大きな疑問が残る部分があります。それは「信仰が進むとは何か?」ということです。

その疑問が解消されないまま「どうしたら進むか」「善のものがらは何か」に問題がスライドしてしまっています。
「信仰が進んだら救われるのではない、それでは自力で救われることになる」とはいいますが、とにかく「信仰が進む=絶対善いこと」という大前提から出発をしています。そもそも「信仰が進むとは何か?」という問いを起こす人は無いのではないでしょうか?

「善をしなければ信仰は進まない」の「善は何か」よりも、「信仰が進むとは何か」の方が大事な問題ではないかと思います。
反対に、「悪ばかりをしていたら信仰は後退(停滞)する」のでしょうか?
そうなると、「信仰が後退(停滞)する」とはどういうことかという疑問が起きます。

募集コメントの例

今回は、「信仰が進む」について、ブログを読まれた方の意見をコメントで募集します。
コメント欄に、思われることを自由に書いていただきたいとおもいます。

(コメントの例)

  • 「信仰が進む」についてこう思っている、または、過去こう思っていた
  • 「信仰が進む」について、こういう質問をしたら、こう聞いたことがある
  • 「信仰が進む」は、自分が阿弥陀仏に救われる事と関係がある、または、ない
  • ………
  • etc

コメントを承認制にしている親鸞会関係者の方のコメントも歓迎します。
コメントの流れをみて、ある程度意見がでたところで、まとめのエントリーを書きますので、よろしくお願いいたします。

もう一つの、「横の線は時間がかかるが、縦の線は一念」問題については、次回のお題にしようと考えています。