安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

正しく理解することと、救いについて(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

あてにならない自分の心を頼りにして生きているから、不安なのだと思います。
本願を聞いて、その文面どうりに受け取れなくて、自分の思いで本願を理解していますが、その間違った思いを正して、本願通りに理解できたならば、救われるでしょうか?
正しく理解すること、と救いは どんな関係でしょうか?(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091007/1254879629#c1255084730

 
回答します。
本願通りに理解できたら救われるのではありません。
また、正しく理解することによって、救われるのでもありません。

正しく理解をしないと救われないと言うことになると、仏教の学問をしない者は救われないということになります。御文章で言えば、5帖目2通・八万の法蔵には、「本願を信じる」ことが大事であると教えられています。

それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。されば聖人(親鸞)の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるといふことあるべからず」と仰せられたり。(御文章5帖目2通

ここで仏教の教義を正しく理解している人を、八万の法蔵を知るといわれています。ここで後世を知らなければ愚者といわれる、「後世」とは、その後半にいわれている「一念の信心のいはれ」です。
決して、後生がわかった、わからない、ということでもなければ、後生がわかるために、まず善をしましょうとかいうことでもありません。一念の信心のいわれを知りなさいということです。

ですから、御文章の中に親鸞聖人のお言葉として、「すべてのひとは、弥陀の本願を信じなければ(一念の信心のいわれを知らなければ)、決してたすかると言うことはない」と言われています。

では、「一念の信心のいわれを知る」ことが、イコール正しく理解することなのかと思われると思いますが、それは違います。「一念の信心のいわれ」は、凡夫の頭で「理解」はできないものです。「不可思議の信楽」でありますから、私の頭で理解できるものではありません。

違った理解を正すと言うことで言えば、「理解すれば助かる」という思いを捨てて、阿弥陀仏の御心を知ると言うことです。別の言い方をすれば「正しく理解できない者でも救う本願である」ということです、「疑い深い者でも救う本願である」と、知ることです。

ただ今救うと言うことは、正しく理解できたら救うのでもなく、疑い深い者が素直な者にして救うということではありません。「こんな者は助からないだろう」という者が救われるのです。