安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「平たく言えばニセの念仏しか称えることができませんが、これを続けていけば本当の念仏が称えられるようになるのでしょうか?それともこう考えること自体"只今の救い"を否定することになるのでしょうか?」(猿松さんのコメントより)

猿松  2019-11-25 14:31
(略)
誤解を恐れずに言えば、それは「念仏の称え方」だと愚考しております。つまりそれは「南無阿弥陀仏、念仏が私を助け浄土往生を遂げさせる力があると信じてる念仏」であると。

ではそこで、この私というものを見てみますと、「生死」ということは実感としてわかる、また今までの自分の人生を振り返っても将来ロクなことにはならないことも予想できる、そしてそういうことはある程度は自分の努力で何とかできる部分もある、しかし後生や流転となるともう自分ではどうしようもない、そうなると阿弥陀様におたのみするしかないとなるはずなのですが、私が後生や流転、阿弥陀様や本願を信じてるとはとても言えない。

だからそこで現状今の私ができることは「南無阿弥陀仏、念仏が私を助け浄土往生を遂げさせる力がある」と"思い込んで"念仏するしかありません。

つまり平たく言えばニセの念仏しか称えることができませんが、これを続けていけば本当の念仏が称えられるようになるのでしょうか?それともこう考えること自体"只今の救い"を否定することになるのでしょうか?

只今私がすべきことをお教えいただければと思います。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/11/19/225940

結論から申しますと、これを続けていけば本当の念仏が称えられるようになると考えるのは間違いです。ですから、そう考えること自体がただ今の救いを否定することになっています。


なぜならば、「思い込んで念仏する」ことによる功徳が往生の役に立つという考えはいわゆる自力の念仏となります。称して称功をみる状態になっています。私の口から出て下さる念仏(南無阿弥陀仏)に功徳があるのであって、私が称えるという行為そのものには助ける力も手助けにもなりません。


ニセの念仏と思っておられるいまの念仏も、そもそもが阿弥陀仏の本願が成就したすがたです。ニセだと思っているのは私であって南無阿弥陀仏そのものはいつでもどこでも私を助ける働きです。

願行みな仏体より成することなるがゆゑに、をがむ手、となふる口、信ずるこころ、みな他力なりといふなり。(安心決定鈔 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1394)

https://bit.ly/2DmEQX0

安心決定鈔に書かれているように、拝む手、称うる口、信ずる心もみな他力です。そういう意味では、私の称え方で何かが変わるということはありません。


そこで、念仏と信心について親鸞聖人の御消息を紹介します。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(親鸞聖人御消息 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P785)

https://bit.ly/2L0a36q

ここでは、「念仏するものを極楽へ迎える」と誓われたのが阿弥陀仏の本願であると、深く信じて称えるのが有り難いことだと言われています。


本願からみると、「○○という効果を期待して念仏するものを救う」とは誓われていません。ただ念仏するものを救う本願です。ある称え方をするものを救うという本願ではありません。


猿松さんは、「思い込んで念仏する」と書かれていますが、それは順番が反対です。ただ念仏を称え、その念仏が私を救って下さる本願成就の相であると信じるのが信心です。最初に念仏する際に、あれやこれやと最初から何かしらの計らいを加えてから称えるのは違います。


言い替えると、思って称えるのではなく、称えて思って下さい。「思い込んで称える」のではなく、称えた南無阿弥陀仏を聞いて思って(信じて)下さいということです。


ただ今私が出来ることは、往生の手助けになるような意味では何もありません。ただ、南無阿弥陀仏に救われることです。念仏するものを救う本願だと聞いて、ただ今救われて下さい。