安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「強く信じた者」しか救われないのではありません(nowhereさんのコメント)

nowheraさんよりコメントを頂きました。

(中略)
振り返ると、これまで多かれ少なかれ、阿弥陀仏を「感じ」ている部分があるように思います。むしろ「感じる」ことなしには、これまで求めては来れなかったように思います。「感じる」体験の数々が、私の求道の歴史であったように思います。

そう思ってみれば、「火を触ったよりもハッキリする」と言われる体験をするまで、ぼんやりとでもよいから「感じる」ことを目指すしかないのでしょうか。強く信じた者にしかできないことを、本心では全然信じていない私がやっていく矛盾をかかえながら。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091007/1254879630#c1254908793

回答します。
ぼんやりとでもよいから「感じる」ことを目指すのではなく、ただ今阿弥陀仏に救われて下さいということです。

強く信じた者にしかできないというものが、阿弥陀仏に向くと言うことではありません。阿弥陀仏の方から向かせてくださるのです。

また、「本心では全然信じてない」というならば、どこか信じているところもあるというように思われますが、それでよいと思います。
「本心で信じていない」が、「信じていない心がある」というのならば、阿弥陀仏に救われてもなくならない煩悩の疑いで「信じてない心」はあります。しかし、その「信じてない心」があっても、往生のさまたげにはなりません。

疑情も疑煩悩も含めて、100%「疑い」が無くならないと救われないと思うのは、自分の心の善悪で、本願を計らっているのです。

しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。(親鸞聖人御消息6

(大意)
わが身が悪ければ、阿弥陀如来は迎えに来ては下されないと思ってはならない、凡夫は元から煩悩具足しているから、悪い者と思いなさい。また、自分の心がよければ浄土に往生出来ると思ってはならない、自力の計らいでは、真実の極楽浄土へ生まれることはできない。

コメントで頂いた言葉からすれば、「本心では信じてない」私を阿弥陀如来は助けて下さらないと思うべきではありません、元から「本心では信じていない」ので煩悩具足と言われるのです。強く信じたら助かると思うべきでもありません、それは自力の計らいですから、わが心の善悪では極楽往生することはできません。

最後に、

「火を触ったよりもハッキリする」と言われる体験(nowhereさんのコメントより)

についてですが、疑い晴れた南無阿弥陀仏を頂くという意味では、ハッキリするには違いありません。
しかし、「火に触ったハッキリ」よりも「ハッキリする体験」と思えばそれは間違いです。
「火に触った体験」は、「熱い!」という皮膚感覚であり、三業のことです。そのような体験が、誰にでもあると言えば間違いです。体験は三業ですから、人によって違います。そのようなハッキリとすれば、疑情も疑煩悩すべて「疑い」が、全部無くなってしまう体験ということになってしまいます。

共通しているのは、私の善悪に関係なく救うという南無阿弥陀仏だけです。ただ今救うという本願に、ただ今救われて下さい。

決して「○○している者は助かる、○○しない者は助からない」という本願ではありません。