nowhreさんからコメントを頂きました。有り難うございました。
助ける働きは南無阿弥陀仏にありますから、阿弥陀仏の救いに向かって下さい。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091005/1254733983阿弥陀仏の救いはどの方向にあるのか。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091005/1254733983#c1254739649
お釈迦様は「西方」と説かれましたが、私のこころの内には方角はなく、
また、この世界のどこを向いても、西にはたどり着けませんよね。
一向に弥陀を専念する、とは口では言えても、どうするのかは難しいことです。
どうすることが「阿弥陀仏の救いに向かって」いくことになるのでしょうか。
回答します。
阿弥陀仏の救いに向かうとは、阿弥陀仏のおられる方角を思い浮かべることではありません。阿弥陀仏の本当に願っておられる、その心を感じることです。
仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。(観無量寿経)
阿弥陀仏の姿といっても、色も形もましまさぬ仏を、人間が目で見ることはできません。また、形のないものを思い浮かべることもできません。
阿弥陀仏の「お姿」ではなく、「仏心」であり「大慈悲」を知ることであり、感じて思い浮かべることです。
子を思う親心を、子供が知り、感じるのは、頭で考えた結果ではありません。
何かを縁にして、親心を感じることがあると思いますが、その時に、親のいる方角を知っているから感じるわけではありません。形のない親心は、目に見えませんが、感じることはできるのではないでしょうか。
秋の気配は、目に見えなくても肌で感ずるものではないでしょうか。データを解析して、秋の到来を知ったとしても、実際に秋を感じるのは、頭ではなく肌で感ずるものです。
お聖教に書かれている文字をどれだけ解析しても、「なんとかただ今助けよう」という阿弥陀仏の大慈悲心を肌で感じなければ、何が書かれているかわからないと思います。
映画「燃えよドラゴン」の有名な台詞で「Don't think! Feel(考えるな、感じるんだ)*1」*2、*3というのがありますが、考えることは大事なことですが、阿弥陀仏はどの場所におられるかという形や文字にばかりとらわれると、大事な事を見失ってしまいます。
親心が、親の心に触れたときわかるように、阿弥陀仏の大慈悲心も、阿弥陀仏の大慈悲に向き合うことで知らされます。方向が違っていては、阿弥陀仏のなんとかただ今私を救おうという、本願の御心を知ることはできません。
阿弥陀仏の大慈悲心は、私の心ではありませんから、私の心の中をどれだけのぞき込んでも感じられません。阿弥陀仏に向かうとは、現在ただ今も私を助けようと、十劫の昔から常に働き続けておられる、阿弥陀仏の願心を知ると言うことです。
知るといっても、わからないということでしたら、よくよく案じてみてください。常に働いておられるのですから、必ずただ今救われます。