安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏から、私からの違い(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

前回は、救われる側からすれば、「罪を知ったから救われた」という関係はないということを書きました。
今回は、阿弥陀仏の側から見た場合でお答えします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091006/1254829301

救われる側から見る場合と、阿弥陀仏の側から見る場合とは違うということでしょうか?同じではないでしょうか?区別されるのにはどのような意味があるのでしょうか?
阿弥陀仏の側から見れば「罪を造った者が、その罪を知り、回心し慚愧することで、救われる」のでしたら、私の側からも結果としては同じだと思うのですが、すべて阿弥陀仏が主語だから私の方ではそれらの関係についてあれこれ言えることではないという意味なのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091006/1254829301#c1254925612

回答します。
違うというのは、大まかに言いますと、「罪を知る」の主語が変わるため、罪の判断基準が違います。
コメントで引用された、「救われる側から言えば、『罪を知ったから救われた』という関係はない」という部分は、私の力で罪を知るということです。私の力で罪を知ったことで阿弥陀仏に救われるということはないので、阿弥陀仏の救いは関係ありませんと書きました。
阿弥陀仏の方から言えば、阿弥陀仏の力で罪を罪と知らせて、回心し慚愧させることで救うということです。

誹謗正法という罪は、正法を知らねばわかりません。その罪を罪と知るのは、正法を知らされるからで、それは阿弥陀仏の願力によって知らされることで、私の力ではないということです。

私が、自分で「善し悪し」や「罪の有る無し」を判断しても、判断基準は自分中心です。
誹謗正法の罪の判断基準は、正法です。その仏法を認めない、自分中心の私の判断基準に、法に目を向けさせ、心の転換をさせるというのが、阿弥陀仏の願力の働きです。

阿弥陀仏の側から見れば「罪を造った者が、その罪を知り、回心し慚愧することで、救われる」のでしたら、私の側からも結果としては同じだと思うのですが(Kさんのコメント)

実際救われた上でいえば、私から見ても、阿弥陀仏からみても、どちらも同じ南無阿弥陀仏の働きという点で同じです。

「私が(私の力で)罪を知った」という自分中心の価値判断は、救いと関係がありません。
前回のエントリーにも書いた親鸞聖人のお言葉です。

しかれば、わが身のわるければ、いかでか如来迎へたまはんとおもふべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆゑに、わるきものとおもふべし。またわがこころよければ往生すべしとおもふべからず、自力の御はからひにては真実の報土へ生るべからざるなり。(親鸞聖人御消息6

自分で罪を知ったというのは、「わが身のわるければ」と思うことです。自分の心の善悪は、自分中心の視点での判断基準です。その基準で、本来善悪を関係なく救うという阿弥陀仏の救いを計らうから往生出来ないと言われています。

すべて阿弥陀仏が主語だから私の方ではそれらの関係についてあれこれ言えることではないという意味なのでしょうか?(Kさんのコメント)

救われるか救われないかという点では、全ては阿弥陀仏のお働きです。私が、何かをした結果が、浄土往生ではありません。

自分中心ではなく、阿弥陀仏に向かって、ただ今救われてください。