安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

罪を罪と知ることと、阿弥陀仏の救いについて(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

>順番をつけられるものでも、因果関係があるものでもありません。
すべて一念のことと読めばそうなのでしょうけれど、それだけではないと思います。色々に表現されることは一つ一つ救いに導くための意味があるはずです。たとえば「罪を罪と知ること」と聞いて普通想像するようなことと一念の救いと何らかの関係があるから「罪を罪と知ること」という表現が可能なのだと考えられます。ただ「関係」といいましてもこれもまた定義が曖昧で、よくわからない気がします。すみませんがもう一度お願いします。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091003/1254573170#c1254666578

回答します。
前回の、尊号真像銘文のお言葉に関するエントリーについてのご質問です。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。(尊号真像銘文

このお言葉は、「除く」と言われたのは、阿弥陀仏が五逆罪を造る者を嫌い、仏法を謗ることが如何に重い罪であるかを知らせようとして仰せられたものだと、親鸞聖人は解説されています。

そこで、「罪を罪と知ること」と「一念の救いの関係」についてのお尋ねです。前回は、救われる側からすれば、「罪を知ったから救われた」という関係はないということを書きました。

今回は、阿弥陀仏の側から見た場合でお答えします。
阿弥陀仏の本願の「唯除五逆誹謗正法」は、抑止門といわれます。言葉の意味は、五逆罪や謗法罪を造っている者は往生出来ないと抑え止められているということです。

謗法罪を造っている者は、仏法よりも自分の言っていることが正しいという立場なので、「除く」ということによって、罪の重さを知らせようという御心です。
そうして自らの罪の重さに気づかされ、罪を罪と知るようになったとき、自らの考えよりも仏法の真実に頭が下がったということになり、仏の願力の手の内に入っていることになります。こうして、自分の罪の深さを認めさせられ、回心し慚愧する人は、どんなに罪が深くても阿弥陀仏の本願に救われる身になります。

そのようにして救うという阿弥陀仏の救いの手立てだと、親鸞聖人は解説されています。

罪を造った者が、その罪を知り、回心し慚愧することで、救われることは、教行信証信巻に、「涅槃経」の阿闍世の回心をかなりの長文で書かれています。
その後に、親鸞聖人はこのように言われています。

ここをもって、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海の帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。(教行信証信巻

お釈迦様の説かれた涅槃経から、五逆罪、謗法罪、一闡提の者である阿闍世を救われた姿を通して、阿弥陀仏の本願は逆謗闡提の悪人を救って下されることを明らかにされました。
素晴らしい薬が、全ての病気を治すように、難化の三機、難治の三病を治療してくだされるのです。最も罪の重いものを救うために造られた、南無阿弥陀仏を早く頂きなさいといわれています。

これは、阿弥陀仏の本願の御心です。
私の心で、救いの設計図をこのように描きなさいと言うことではありません。

もう一つのコメントについて、お尋ねではありませんが、一言最後に書かせていただきます。

ちなみに、人間が身体(例えば手)を動かすとき、「動かそう」と意図するよりも前に脳は動かす準備を始めているらしいです。常識ではそうは思わないですよね。
これでは阿弥陀仏の救いについて救われた人でも一体何が分かるのでしょうね。体験したと思ったことを言ったところで全然間違っているのかもしれないですね。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091003/1254573170#c1254668219

救われたと言っても、意識で分かる範囲というのは非常に限られています。
南無阿弥陀仏の法の上で知らされることといっても、この煩悩を持った肉体では、仏にはなれないので、仏様のように阿弥陀仏の御心が分かるわけではありません。
そういう意味では、救われたと言っても何が分かったと言うことではありません。

後に来る三業の体験を、先にすると、体験に後付で人間は理由を勝手につけてしまいます。
三業は、信心からあらわれるものであって、三業から信心があらわれるものではありません。
そういう意味で、体験した(三業)を先に持ってきても、意味のないことです。