安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

会長「十方衆生は逆謗だから、逆謗でない者は本願に漏れている」→参詣者「??」(7月28日テレビ座散会より)

平成23年7月28日(木)テレビ座談会が行われました。以前は、土日にテレビ座談会が行われていました。どうやら節電の関係で、自動車会社関連企業が、木曜日、金曜日を休日とし、土曜日、日曜日を勤務日としたための措置だと思われます。

参加した方から情報を頂きましたが、顕真7月号同様に「??」となってしまう内容であり、教義批判ブログ(主に飛雲)に対する自己弁護の内容でした。

中でも気になった内容を紹介します。
テレビ座談会の質問で、午後に出た質問は高森会長の著書「なぜ生きる」2部5章についてのものでした。
以下は、質問

なぜ生きるP136に「死は万人の確実な未来なのだが、誰もまじめに考えようとはしない。(略)身の震えるような不安と恐怖を覚えるが、それはあくまでも一過性で、あとはケロッとして、「どう生きるか」で心は埋めつくされる。たとえ、自分の死を百パーセント確実な未来と容認しても、まだまだ後と先送りする。」とあります。
病気にかかったときに死ぬかも知れないと思ったことはありますが、一過性で、あとは大学の勉強やアルバイトのことで心は埋め尽くされている。死ぬという事ほどの大問題はないのに、どうして死のことより、生活上のことを問題にしてしまうのでしょうか?(7月28日テレビ座談会午後の質問)

これに対して、無常とはどういうものかという話が約一時間くらい続いた後に会長は

仏教の教えはまだでていないところなんですが、なぜ仏教を聞くのかという始まりの所ですから。えぇ。
仏教では、人間とはいかなるものか。逆謗、闡提と教えられています。(会長の回答より)

約一時間話をした挙げ句「仏教の教えはまだ出ていない」と言った後、「人間=逆謗、闡提」という自説を展開していきます。
私はここで、一時間近く何を話をしていたのかと思いました。

その後

逆謗闡提が全ての人、全ての人を十方衆生という。一人としてそうでない人はいない。(会長の回答より)

と、いつもの自説を展開していきます。

このあたりは、「十方衆生=逆謗の屍」という妄想に取り憑かれた親鸞会: 飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~に対する、会員向けの反論だと思います。

その後、会長は、さらに意味不明なことをいい始めます。

五逆罪を造っていない、闡提でない、それは阿弥陀仏の本願に漏れるんです。それは阿弥陀仏のお目当てでないけど、そう自惚れているんですよ。だから今日の質問は、阿弥陀仏が全ての人を十方衆生を逆謗闡提と見抜いて、逆謗でない、闡提でないそんな人は本願から漏れるんです。そんな人いるはずないけど、うぬぼれているんですよ。
阿弥陀仏は全ての人を逆謗闡提と見抜いて南無阿弥陀仏を作られたんですから。
仏法を一生懸命聞いて無常に驚くようなものならば、闡提でない。聞いたから聞かないからでない。(会長の回答より)

十方衆生を救うといわれたときは、「逆謗の者でも救う」であって、「逆謗の者でなければ救わない」ではありません。もし、「逆謗の者でなければ救われない」となれば、「十方衆生を救う」本願になりません。また、「弥勒菩薩」も「龍樹菩薩」も、本願に漏れることになります。

加えて、当ブログでも書きましたが、顕真7月号に「後生の一大事に驚きを立て、弥陀の救いを求める人が聞くのが19願」と言いながら、無常に驚かないのが闡提であり十方衆生と言っています。

真面目に顕真を読んだ人が、今回の話を聞けば、「???」と思うしかない内容でした。

最後に、会長が仏願の生起本末について話をしたところを紹介します。

誰のために本願を建てられたのか、生起。十方衆生のためです。十方衆生はどんなものか、逆謗闡提と見抜いて建てられた。そして法蔵菩薩になられて兆載永劫の修行をされたのが本です。そして阿弥陀仏になられたのが末です。これで生起本末。
何を聞くのか。生起と本末。阿弥陀仏の本願の生起は、逆謗闡提である、それを聞く。(会長の回答より)

生起本末の説明をしながら、結局は生起を聞けと結論づけているので、親鸞会会員は「仏願の生起本末」ではなく、「仏願の生起」を聞き、自身が「逆謗闡提」と知らされるまで聞かねばならないようです。

阿弥陀仏の救いを聞くということは「自身が逆謗闡提である」ことを聞くことではありません。文字通り「我をたのめ必ず救う」の阿弥陀仏の救いを聞くことです。