安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

法を知らされた凡夫には、お釈迦様の様には判らないにしても、阿弥陀仏が本当におられるという事がハッキリと判るのでしょうか(しかばねさんのコメント)

しかばねさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
イエスかノーで答えてくださいということなので、先にそちらを書きます。

しかばね 2013/03/25 21:42

ところで、山も山さんは、信後に入るまでに「私は、五逆罪と謗法罪を造っているから、阿弥陀仏の本願からもれている。」
と自覚したことがありましたか? 「ある」か「ない」かでお答え下さい。(しかばねさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130325/1364201581#c1364215321

「ない」です。

又、凡夫は「阿弥陀仏がお釈迦様のように判る」ということはないので、死ぬまで謗法罪の者だと言われていますが、
法を知らされた凡夫には、お釈迦様の様には判らないにしても、阿弥陀仏が本当におられるという事がハッキリと判るのでしょうか?
これも「ハッキリと判る」か「ハッキリとは判らない」かのどちらかでお答え下さい。
申し訳ありませんが、私は頭が悪いので難しい事は良くわかりません。 イエスかノーかで答えて頂きたいのです。
どうか、御回答よろしくお願い致します。(しかばねさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130325/1364201581#c1364215321

「お釈迦さまの様にハッキリとは判らない」です。どうもしかばねさんの文面からすると「相当なにかハッキリする」という前提でのお尋ねなのでこのように答えます。


そこで、しかばねさんのコメントを拝見すると「救われる前に五逆と謗法罪を作っているから、阿弥陀仏の本願から漏れていると自覚」するものだと思われているのではないかと思います。また、私の個人的な体験談を聞こうとする意図は、ご自分で「信心とはこういうものである」という決めつけをされているように感じます。私がしかばねさんのお尋ねに対して、答えることによって、しかばねさんは、私の信心の有無を判定されようとしているのでしょうか?と逆にお尋ねします。
さらにいえば、しかばねさんが「真実信心の有無の判定基準」とされているものは、誰かから聞かれたものかと思います。もし、親鸞聖人がそのように言われているのならば,そのご文をお示しください。それについての誤解があるならば、私はいくらでもお答えしたいと思います。しかし、それが「どこかのだれか」というよくわからない人の言葉ならば,忘れた方が賢明と思います。一番新しいコメントを拝見する限りでは、しかばねさんは、私の信心を判定しようとされているようですが、しかばねさんはどういう立場(自身は獲信しているまたはそうではない)で書かれているのでしょうか?



阿弥陀仏の第十八願は、前回のエントリーに書きましたが、「汝一心正念にして直ちに来れ」の仰せです。「お前は本願に漏れているぞ」という排除の言葉ではありません。一度排除されないと救わないような、了見の狭い仏様ではありません。どんな邪険驕慢な私でも、そのまますくい取ってくださる仏が、阿弥陀如来という仏様です。


最後に、私は愛知県に行くことがあるので、しかばねさんが愛知県まで来られることがあり、直接お尋ねしたというのであれば連絡を、yamamoyama@gmail.comまでお願いします。