安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の本願は、何を誓われたものか?(ぺんぺん草さんのコメント)

8月10日の記事*1で、山も山様は
「18願は阿弥陀仏が、真実信心(信楽)を与えてみせると誓われた願です。」
と仰いました。ということは、「若不生者 不取正覚」の生まれるは、極楽に生まれることではなく、信心を獲得することなのでしょうか。(ぺんぺん草さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090915/1253009738#c1253017329

回答します。
お尋ねの件については、言葉足らずで誤解をされた方もあるかもしれません。ご指摘頂き有り難うございました。

結論からいいますと、コメントされたように「18願は真実信心を与えてみせる」と阿弥陀仏の本願を説明したのは、本願全ての内容ではありません。
また、「若不生者不取正覚」は、「信楽の身になった者を極楽に生まれさせる」という意味です。

18願で誓われた内容

阿弥陀仏の第18願で、十方衆生を相手に誓われた内容は以下の通りです。説明の都合上「唯除五逆誹謗正法」の部分は今回は解説から省きます。

至心信楽欲生我国 乃至十念
若不生者不取正覚
(至心に信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)

これを、簡単に言いますと
「阿弥陀仏の本願を信じて(至心信楽欲生我国)、念仏するもの(乃至十念)を、必ず浄土に往生させる(若不生者不取正覚)」というのが18願で願われた内容です。
別の言い方でいいますと、「真実信心を与え、念仏を称える身にさせ、必ず浄土に往生させる」ということになります。

確かに、阿弥陀仏の本願を、若不生者のちかいと、親鸞聖人はいわれています。しかし、漢字で書けば、36文字が、第18願であり、「若不生者不取正覚」の部分だけが、阿弥陀仏の本願ではありません。

「若不生者 不取正覚」について

若不生者不取正覚に関しては、親鸞聖人はこのように解説されています。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)

(大意)
「若不生者不取正覚」の、「若不生者」とは「もし生まれずは」というお言葉であり、「不取正覚」とは「仏に成りません」と誓われたお言葉である。この御心は真実信心を得た人が、阿弥陀仏の浄土に往生しなければ仏に成らないと誓われたお言葉なのだ。


ですから「若不生者不取正覚」とは、「現在真実信心を獲得した人を必ず弥陀の浄土に往生させる」という意味です。信心に関しては、その前の「至心信楽欲生我国」の部分で誓われています。

そこで、上記の尊号真像銘文の後にこのように書かれています。

この本願のやうは『唯信抄』によくよくみえたり。「唯信」と申すは、すなはちこの真実信楽をひとすぢにとるこころを申すなり。(尊号真像銘文)

(大意)
阿弥陀仏の本願については「唯信鈔」にくわしく書かれている。「唯信」とは、この真実信心を一筋に獲得するこころをいうのだ。

私たちを生死から出させ、阿弥陀仏の極楽浄土に往生させ、仏のさとりを開かせるために、阿弥陀仏は願を建てられました。阿弥陀仏の浄土に往生させるために、南無阿弥陀仏を完成され、それを与える一つで救うのが阿弥陀仏の本願です。
その意味から、現在生きている人にとって、浄土に往けるかどうかは、南無阿弥陀仏を受け取るかどうか、別の言葉で言えば、信心を獲得するかどうかで決まります。
その意味から、真実信心(信楽)を与えてみせるという本願だと解説をしました。

本願全体をいうのであれば、真実信心を与え、念仏称える身に救い、浄土に往生させる本願であると書いた方がよいと思います。内容によっては、今後も信心のことだけを書くこともあると思いますが、今後は気をつけて書きます。