YMGさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
自力が廃ったのも、知覚できないのでしょうか?(やがて知らされる?)(YMGさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090913/1252843952#c1252889165
回答します。
自力が廃っていることは、わかりますが、それが「いつ」となると、一念なので知覚はできません。
自力とは、私の心ですから、自分の心の信前信後の違いは分かります。
身・口・意の乱心を繕い、めでとうしなして浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり。(末灯鈔)
このように、自らの三業をよくして往生の足しにしようと思う心を自力といいます。往生が定まれば、往生の足しにしようという心はありません。「自力の心がない」という自覚はあります。
それは、南無阿弥陀仏があるという自覚とは、違った意味での自覚です。
元来自分の心であるものの有無と、元来自分の心に無いものの有無の違いからくるものです。
関連して、Kさんからも質問を頂いております。
山も山様が言われる「自覚」は私の三業のことですね。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090914/1252927542#c1252945797
また「信一念は、人間に知覚できません。時尅の極促だからです。」と言われたのも私の三業のことですね。(Kさんのコメント)
「自覚」とか「知覚」といったのは、言われる通り私の三業のことです。
一方、信の一念で南無阿弥陀仏をいただいて私と一体になるのが弥陀の救いであり信心であり、これは私の三業ではないのですね。で、南無阿弥陀仏が私の三業に映ったものが「自覚」なのですね。(Kさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090914/1252927542#c1252945797
これに関しては、関連したことを御文章から紹介ます。
されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもって、信心決定の体とす。しかれば「南無」の二字は、衆生の阿弥陀仏を信ずる機なり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字のいはれは、弥陀如来の衆生をたすけたまへる法なり。このゆえに、機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。これによりて衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、善導和尚は「彼此三業不相捨離」(定善義)と釈したまへるも、このこころなり。(御文章3帖目7通)
(大意)
南無阿弥陀仏の六字を阿弥陀仏から賜る事を、信心決定の体とする。どういうことかというと、「南無」の二字は、私が阿弥陀仏を信ずる心であり、「阿弥陀仏」の四字は、阿弥陀仏が私を助ける法である。ここから機法一体の南無阿弥陀仏といわれるのだ。私の三業と、阿弥陀仏の三業が一体になるところをさして、善導大師は「彼此三業不相捨離」といわれたのも、この心である。
信ずる心も南無阿弥陀仏から頂いたものですから、本来は私の心ではありません。阿弥陀仏が作られた信ずる心が、私の心に常に映されて信じさせていただけるということです。
南無阿弥陀仏を頂いて「自覚」したのが「救われた体験」というものなのでしょうか?自覚は私の三業なので一人一人異なるものになるのでしょう。(Kさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090914/1252927542#c1252945797
体験という言葉自体が、その人の自覚という意味が含まれます。自覚の上で「救われたという体験」が、その人にとっての救われた体験となります。
もちろん実際に「救われた」とは、「往生一定の身になった」ことですから、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から賜ったことをいいます。
あと疑問なのですが一念(という極めて短い時間)で救われたのだということは救われた本人に分かるものでしょうか?(Kさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090914/1252927542#c1252945797
一念は時尅の極促といわれるだけに、「一念で救われたと知覚できる時尅」は一念ではありません。なぜ一念で救われると言うことがわかるかといえば、本願成就文の「信心歓喜 乃至一念」のお言葉や、親鸞聖人の
それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。『一念』とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(教行信証信巻)
のお言葉で知ることができるということです。
どれだけ振り返っても、「わかる時間」ならば一念とは言われません。