安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

救われた自覚の有無というより、名号を聞いたか聞いていないか(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

では阿弥陀仏に救われた後、他力の信心を獲得しているという自覚があるのはどうしてでしょうか?
その自覚そのものは信心ではないと思います。しかし自覚したものしか私たちにはわからないのではないでしょうか?
分かるというのであれば、救われた信の一念のときから分かることになると思います。
この「分かる」「わからない」という言葉も曖昧なのですが。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090912/1252758586#c1252845774

回答します。
今回のお尋ねに回答する上では、Kさんのいわれるように「わかる」「わからない」という言葉は、回答を曖昧にしてしまうと思います。そこで、今回は、「分かる」「分からない」という言葉を使わずに、別の言葉で説明をします。

親鸞聖人が、阿弥陀仏に救われたことを、「聞く」と言われているところがあります。その言葉を使って、回答します。

最初のお尋ねは、「他力の信心を獲得しているという自覚があるのはどうしてでしょうか?」です。
この回答は、他力の信心を獲得することは、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を聞かせていただくということです。それは、阿弥陀仏からの呼び声を聞いたことです。常に阿弥陀仏の呼び声を聞いているから、それを自覚があるという言葉で言いました。

「聞く」という言葉を使われた親鸞聖人のお言葉を紹介します。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもって聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。(教行信証総序)

(大意)ここに親鸞は、よろこばしいことに、インド、中国、日本の高僧・知識方の教えに、あいがたくして今あうことができた、聞き難くして聞くことができた。阿弥陀仏の本願の教行証を、信じ敬って、特に如来の恩徳の深いことを知らされました。ここをもって、聞かせていただいたことを喜び、与えていただいた南無阿弥陀仏を褒め称えるのです。

「聞其名号」と本願成就文でいわれるように、「その名号を聞いた」のが、阿弥陀仏に救われたということです。別の言葉で言いますと、「ただ今救う」あるいは、「直ちに来たれ」の阿弥陀仏の呼び声を聞いたことです。

Kさんのいわれる、「自覚」というのは、私たちの三業のことだと思います。
確かに、(私の)三業=信心(南無阿弥陀仏)ではありません。

しかし、南無阿弥陀仏を頂いて、「本願や行者、行者や本願」という身になった上には、常に南無阿弥陀仏が聞こえて下さるのです。それを「分かった」と書きました。「自覚」といっても、南無阿弥陀仏が、私の三業に映ったもので、凡夫の三業では阿弥陀仏を見ることも、聞くこともできません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章5帖目5通)

信心獲得といっても、阿弥陀仏に救われるといっても、その中身は、第18願をこころうることです。第18願をこころうることを、南無阿弥陀仏のすがたをこころうると言われています。
南無阿弥陀仏のすがたをこころうるとは、先ほど書いた「聞其名号」のことです。

南無阿弥陀仏を聞いたことです。ただ今救う本願を、ただ今救うと聞いたことです。私が分かった、分からないかというと意味が曖昧になるかと思います。

「南無阿弥陀仏を聞いたか、聞かないか」が信心獲得したか、しないかの水際です。「私の三業でわかったか、わからなかったか」ではありません。

ここでいう「聞いた」とは、「何か外で音が聞こえた」という私の耳での身業のことではありません。南無阿弥陀仏を聞いたことです。別の言葉で言えば南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から頂いたことです。

お尋ねの問いを、今までの書いたことを踏まえて
「救われた後なぜ南無阿弥陀仏が聞こえるのですか?」
と変えますと、回答は
南無阿弥陀仏を頂いているから、聞かせていただけるのですいうことになります。