前回のエントリーに、複数の方からコメントを頂き有り難うございました。
その中で、
しかばね 2013/04/23 17:33
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130422/1366574505#c1366705996
(略)
私は、最初、本願寺の御説法で聞いた『阿弥陀様は“声の仏様”になって下さいました。
信心と申しますのは、この“南無阿弥陀仏”を聞いていることでございます。』の意味が全くわかりませんでした。(略)(しかばねさんのコメントより)
とあったことについて書きます。
阿弥陀仏は私を救うために本願を建てられて、その結果南無阿弥陀仏の名号を成就されました。そこで、阿弥陀仏に救われるというのは「阿弥陀仏」という仏様が、臨終来迎図のような姿であるときドーンと目の前に現れてくださるのかと思う人もあると思います。以前は、私もそのように考えていた時もありました。
「絵像や木像の阿弥陀仏そのままの姿ではないものの、何か言葉で表現できない「『ものすごいもの』が私にドーンと届いて下さるのではないか?」というものです。
しかし、阿弥陀仏は名号となって私を救うといわれています。そのことを親鸞聖人は,
いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。(教行信証行巻より_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P180)
http://goo.gl/ogtwJ
と引文されています。
阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となり人を救ってくださいます。この南無阿弥陀仏の名号を耳に聞き口に称えると、限りない功徳が心に入ってくると言われています。阿弥陀仏は、名号で私を助けてくださいます。名号は「耳に聞き口に誦する」と南無阿弥陀仏の称名念仏といわれます。この南無阿弥陀仏の声は、阿弥陀仏が私を助ける姿となられたものですから声の仏と表現しています。
この南無阿弥陀仏を聞いて疑い無いのないのが信心ですから、
信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。 (御文章5帖5通)
http://goo.gl/CvKdp
と蓮如上人は言われました。
南無阿弥陀仏のいわれを、今の日本語に書けば前回のエントリーに書いた「お前をただ今救う」ですが、実際に「耳に聞き口に誦する」のは「南無阿弥陀仏」です。「お前をただ今救うぞ」という日本語が、どこか遠くから聞こえるものではありません。「声無き声」という人もありますが、声がないのではありません。「南無阿弥陀仏の声」が「南無阿弥陀仏」と聞こえます。南無阿弥陀仏と聞こえたのが、「お前をただ今救うの阿弥陀仏の仰せ」と聞いて疑い無いのが信心です。
追記
6月23日(日)に愛知県西尾市にご縁があって行くことになりました。話を聞きたい方は、ご連絡下さい。