安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心が崩れるとはどういう意味か(手品師さんの質問)

手品師さんから、質問を頂きました。有り難うございました。

「信心が崩れる」という表現を聞きますが、どう理解すればよいのでしょうか?
(例)ちょこちょこ安心数知れれず・・・(一時的に救われたことになるのでしょうか?)
救われたからといっても、本当に救われたかどうか?分かるまで時間を要することがあるのでしょうか?

回答します。

信心が崩れるとは、「救われた=信心」という意味だと思いますので、「救われたと思っていた考え」が崩れ、「まだ救われていなかったことを自覚する」ということです。

いわゆる「つもり信心」といわれるものです。「つもり」はあくまでも「つもり」で、真実信心ではありません。
相続しないので、「つもり」も続かず崩れます。

二者信心一ならず 決定なきゆえなれば
三者信心相続せず 余念間故とのべたまう(高僧和讃)

救われたと言っても時間がかかるかと言う点については、前回のエントリーでも書きましたが、信一念のN秒後には必ず知覚されるというように決まったものはありません。
どれくらい前に救われていたかについては、分からないから、救われた人も書くことができません。その人が、救われたことを自覚したという前のなんらかの体験=獲信の一念ではありません。
どれだけ自覚した「その時」救われたといっても、「自覚の上でのその時」と、「獲信の一念」は同時になりません。