安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ただ今救われなさいが、釈尊、親鸞聖人の勧めです(Kさんのコメント)

この安心問答について親鸞会講師の方から
「あれは、善巧方便ということが分かっていない人の書いた文章」だと言われました。
善巧方便とはどういうことか教えていただきたく思います。よろしくお願いします。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090906/1252246029#c1252248830

回答します。前回のエントリー*1のコメントです。
善巧方便とは、仏様が、巧みに善くてだて(方便)をめぐらして衆生を利益することをいいます。

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。(教行信証信巻)

釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり(高僧和讃)

真実信心を獲得させていただけるのは、阿弥陀仏、お釈迦様の善巧方便があったからだといわれています。

親鸞会講師の方が、どのように前回のエントリーをよまれて「善巧方便がわかっていない」といったのかは、このコメントだけではハッキリとはわかりません。

以下は、私の予測として書きます。違っていたら、またコメントをいただければ有り難く思います。

親鸞会講師のいう善巧方便とは、「全力で参詣せよ」ということだと思います。
全力で参詣していけば、そのうち知らされることがあり、やがて救われるということを言っているのだと思います。
また「全力で善をせよ」「善をすれば何かが知らされて救われる」ということなのだと思います。

全力で参詣する前に、何を聞くのかが大事ではないでしょうか?と前回のエントリーでは書きました。
足を運ぶのは、「仏の御名を聞く」ことであり、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から賜り、ただ今弥陀に救われることなのです。

参考までに、親鸞会では何を聞けと言っているのかということを、親鸞会公式サイトから引用します。ブログで指摘されて一部訂正されてた後なので、親鸞会内ではこれが正式な見解ということだと理解します。

「仏法は聴聞に極まる」と蓮如上人は道破される。
 では、どこまで聞けばよいのか。聞法の決勝点を親鸞聖人は、こう明示されている。

「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」(教行信証)

「仏願の生起・本末」を聞いて、疑いの全く無くなった時が決勝点との確言だ。
「仏願」とは阿弥陀仏の本願。「本願」は「誓願」ともいわれ、お約束のことである。
 約束には必ず相手がある。弥陀の誓願はどんな者を相手に建てられたのか、本願のお目当てを「生起」という。(以下略)
 (聞法の決勝点

仏願の生起本末を聞けという親鸞聖人のお言葉を出して有りますが、全文を見ても、「生起」はあっても「本末」はどこにも書かれていません。
文末にはこう結んであります。

「弥陀が見抜かれたとおりの、絶対助からぬ逆謗でありました」
「自身は、現に、これ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかた、つねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし、と深信す」と機の深信が立つと同時に、その逆謗を生かす「若不生者」の誓いに疑いが晴れるのだ。
 そこまで聞き抜け、と聖人は仰せなのである。(同上) 

聞法の決勝点

要約しますと、「絶対助からぬ自分と知れ、そうしたら助かる」ということです。
または「自己の姿を徹底して見つめなさい、そうしたら助かる」ということです。

「助かる縁の無いもの」と見抜いて本願を建てられたのは、仏願の「生起」です。では、どうしたら、救うことができるのかと、五劫思惟され、兆載永劫のご修行をされて、与える一つで往生させる南無阿弥陀仏を完成されたというのが「本末」です。

「苦しくなければ求道ではない」?

「とにかく参詣せよ」といわれ、「助からない私」とひたすら聞くのが、親鸞会講師の方がいう、善巧方便のようです。聞けば聞くほど、ある意味苦しくなるので「これが求道」と思われるのでしょうか。
「求道は苦しくなければならない、苦しくなければ求道とは言えない」という固定観念が有るようです。
おそらく、「無理をしなければ財施にならない」という親鸞会内で繰り返しつかわれるフレーズから連想しているのだと思います。しかし、その連想から、肉体的精神的に苦しめば苦しむほどよいというように思う人も出てきます。指導する方も、「それが善巧方便」と思って勧めているのでしょうか?

「助からぬ自己を知るために、全力で富山に足を運び、精一杯財施をし、倒れるまで活動するように勧める」のが、善巧方便なのでしょうか?
その勧め通りに実行し、実際に肉体的精神的に倒れていく会員に対しては「縁がなかった」ですませてよいのでしょうか?そして、「倒れた法友の屍を乗り越えて行け」と勧めるのが善巧方便なのでしょうか?

釈尊、親鸞聖人の教えからいって、それが善巧方便ではありません。

求道はある意味苦しいものです。楽して求められる真実信心ではありません。
しかし、苦しくなければ求道ではないというのは間違いです。獲信するのが求道です。

聞法とは、「ただ今救う本願を、ただ今救うと聞く」ことです。「助からない自分だと知るために聞く」のではありません。

善巧方便といわれるのなら、阿弥陀仏は「そのまま来たれ」といわれ、お釈迦様は「阿弥陀仏に向かえ」と勧めておられます。「助からぬ自分と知れ」とは、勧めておられません。

救う法を聞くことがないから、「聞いていればいつか、助かる縁の無いものと知らされると同時に救われるのだ」と思うしかないのかも知れません。
「雑行をすてて、弥陀をたのめ」と繰り返し書かれている御文章をよくよく拝読されたらよいのではないかと思います。

ただ今救われる本願ですから、ただ今救われなさいと、釈尊、親鸞聖人は勧めておられます。