親鸞会公式サイトの「仏法は聴聞に極まる」の記事についてどう思いますかと尋ねられました。お尋ねの部分を読んで見ました。いろいろと思うところはありますが、以下の部分について書きます。
「弥陀の呼び声」を聞く(真)聞即信の一念まで、釈迦の教えをきくのを「聴」(仮)という。それは「弥陀の呼び声」を聞くまでの善知識方の教導を聴くことである。
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20100801choumon-kiwamaru.htm
(仏法は聴聞に極まる|親鸞会・顕正新聞)
(真)と(仮)の定義が、文章を読んでもよく分かりません。「弥陀の呼び声」とは何かについての解説はなく、「聞くことが大事」というのが文章の趣旨のようです。
しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(教行信証信巻 註釈版聖典P251)
聞とは、仏願の生起本末を聞いて疑心あることなしということであり、信心とは、本願力回向の信心であると言われています。
「弥陀の呼び声」は聞即信の一念までない?
顕正新聞の説明では、「弥陀の呼び声」は聞即信の一念までないので、それまで善知識の教導を聞くことが大事という主張です。
こうなりますと、阿弥陀仏は「聞即信の一念」まで私にむかって呼びかけられることはないということのようです。裁判所の判決のように、最後の最後になって初めて「そのまま来い」と呼びかけられるかのように書かれています。
親鸞聖人が「聞」について「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」といわれているのは、すでに仏願の生起本末(弥陀の呼び声)を聞いている前提でのお言葉です。
阿弥陀如来は本願を起こされて、阿弥陀仏となられて以来常に、私に向かって「必ず救うから我をたのめ」と十劫以来呼びかけられておられます。私はそれを聞いても疑っているのです。その遙か昔から呼び続けられている阿弥陀仏の呼び声を聞いて疑いないのが、「聞即信の一念」といわれます。
【まとめ】
顕正新聞の主張
- 救われるまでは、阿弥陀仏が呼ばれるわけ無いのだから、善知識の教導を聞け。
- 親鸞会の機関紙という性格から、善知識=高森会長なので、富山県の親鸞会館で高森会長の話を聞け。
- 二千畳に来なさい
- 二千畳にこないと弥陀の呼び声は聞けない
親鸞聖人は、常に阿弥陀仏は呼び続けられているのだから、阿弥陀仏の呼び声を聞きながら疑っている人に対して、聞いて疑いないのが聞いたことであり、信心なのだと教えておられます。
阿弥陀仏の仰せをただ今聞いて、疑いないのが信心です。ただ今阿弥陀仏の本願を聞いて救われて下さい。