安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

一心一向に弥陀に帰命しなさいというしかないと思います(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

すみません、9/6のエントリーにコメントしてしまいましたが、タイミングから考えてその講師の方はそれより前のエントリーを読まれ全体的に見られて言われたと思います。

善巧方便についてですが、阿弥陀仏に救われることと関係のある善の勧めについて否定している(ように見える)ことに対してのことだと思います。
それと、阿弥陀仏、お釈迦様、親鸞聖人はもちろんですが特に高森先生の善巧方便ということではないでしょうか。講師の方自身の善巧方便とはあまり思ってないでしょう。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090907/1252327845#c1252332650

以前のエントリーで、私たちの善行と阿弥陀仏の救いは無関係であると書きました。こう書くとどうも、親鸞会関係の方は、「善の勧めを否定した」と読むようです。

善巧方便とは、他の方のコメントにもありましたが、あくまでも阿弥陀仏や、お釈迦様が真実を分かられた上で、私たちを巧みに導かれることをいいます。
親鸞聖人も、「仏意はかりがたし」といわれています。仏でない凡夫の身では、仏と同じようには分からないのです。

そういう前提で、親鸞聖人は、阿弥陀仏、釈尊の教えられた御心を、私たちに伝えて下さいました。法に対しては、頭を垂れるという親鸞聖人のお姿を通して、阿弥陀仏の法の尊さを私たちも知らせて頂くのです。

そこで、高森会長の善巧方便とはいわないにしても、そう思っているのなら間違いです。「親鸞聖人も明らかにされなかったことを、明らかにされるこの方は、親鸞聖人と同等かそれ以上の善知識である」という心なのかもしれません。

個人的にそう思うこと自体は、構いません。しかし、それを他人を批評するときの背景に使うのは間違いです。親鸞聖人が言われなかったことだという批評なら、間違ったところは直していかねばなりません。
しかし、高森会長と違うから間違いというのは、是非の基準が特定の個人の意見です。そのような批判は、真宗教義上の是非ではなく、高森会長の言うことを信じられるか、信じられないかということになるので意味がありません。

阿弥陀仏の救いにあうまで、何を勧めるか?

阿弥陀仏の救いに遇うところまでどのようにして導いたらよいのかということについて山も山様がどのように考え実行されているか教えてください。私自身が知りたいということもありますが、「あれは、善巧方便ということが分かっていない人の書いた文章」ということについて反論があればしてほしいということです。(Kさんのコメント)

蓮如上人がいわれるように、いうしかないと思っています。

そもそも、善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、人を勧むべきばかりなり。(御文章2帖目11通)

人に法を伝えるのならば、その仕事は「一心一向に弥陀に帰命しなさい」というだけであると言われています。ただ今阿弥陀仏に救われなさいと人に勧める以外にないのではないでしょうか。

「それだけ伝えるのは不十分」と思うから、「善を勧めないのはおかしい」というのではないでしょうか。「念仏に偏っている」と、法然上人を攻撃した聖道仏教の僧と同じ批判です。念仏以外に何か往生の足しになるもの、往生と関係がある善があるという話を聞いて動揺した関東の同行と同じ心です。

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。(歎異抄2章)

阿弥陀仏の本願念仏以外に、往生の道や、他の法文を知っていると思っているのならば、大変な誤りであるといわれています。

「あれは善巧方便ということがわかっていない人の書いた文章」についての、反論というものは特にありません。

ただ、一言いうならば、親鸞聖人は関東の同行に「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」という以外に何かがあると思うのであれば、「南都北嶺のゆゆきし学匠」に往生の要をよくよく聞きなさいと言われました。
今日であれば、「本願寺の学者を一撃で撃破する大学者」に往生の要をよくよく聞きなさいといわれるのではないでしょうか。

「○○したら助かるというのは間違い」の意味について

親鸞会では「○○したら助かるというのは間違い」と教えられていますので上記ご回答の内容は(そのように思っている人が会の内外ともに多いのは事実だと思いますが)親鸞会の教えがそうだと言われるのであれば当たっていないと思います。(Kさんのコメント)

親鸞会で「○○したら助かるというのは間違い」といっているのは、「自力が間に合わない」という本来の意味とは違う意味で使われていると思います。

「自力が間に合わない」とは、「阿弥陀仏にむかって」○○したら助かるというのは間違いということです。しかし、親鸞会では、お聖教上の根拠で自力無功を教えられた御文を出しますが、言っていることは、終始一貫して「自分の心が」○○したら助かるというのは間違いと言っています。

以下は、実例として、親鸞会関係者のサイトから

信心のバーゲン・セールとその大罪
泣いたのが信心でもなければ、笑ったのが信心でもない。
慟哭したのが信心でもなければ、はいずり回ったのが信心でもない。
スッキリしたのが信心でもなければ、ハッキリしたのが信心でもない。
念仏が止まらなかったのが信心でもなければ、有り難くなったのが信心でもない。
嬉しくなったのが信心でもなければ、尊く思えるようになったのが信心でもない。
合点したのが信心でもなければ、叫ばずにおれないのが信心でもない。
家庭の円満なのが信心でもなければ、健康に過ごせるのが信心でもない。

安楽椅子は無数にある。(以下略)
http://shinranshonin.hp.infoseek.co.jp/group/naze78kejyou.html

http://shinranshonin.hp.infoseek.co.jp/group/naze78kejyou.html

「泣いた」とか「笑った」など、どの表現も「自分が」こうなった、ああなったのが信心ではないと、常に自分の心の動きばかりを問題にします。

結果として、泣いたのが信心ではないから泣かないように、笑ったのが信心でないから、笑わないようにしよう。慟哭したのが信心でもないから、慟哭しないようにしよう(以下略)となっているように思います。

「(私が)○○したら助かるというのは間違い」という言葉によって、結果として何も思わないように、ただただ自己の罪悪ばかりを問題にしようとしているのではないかと思います。

本来は、「阿弥陀仏に向かってどれだけ自力の善を差し向けても、自力の善根では助からない」という意味で使う「○○したら助かるというのは間違い」という言葉が、「私が泣いたり、笑ったり、喜べたりしたら助かると思うのは間違い」となっています。
主語が、阿弥陀仏ではなく、私になっているという点で間違いです。

ただ、自分の心がどうなったかということは、阿弥陀仏に向かねば、ただの心の動きです。それがどうなったところで、信心ではないのは当たり前です。

問題にするのは、阿弥陀仏にむくかむかないかであり、ただ今救われるか救われないかです。
阿弥陀仏を抜きに、自分の心をどれだけ問題にしても、終わりがありません。