安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ただ今救われる本願に、ただ今救われないことが大事な疑問(質問です。さんのコメント)

質問です。さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ただ今阿弥陀仏に救われて下さいというフレーズが、毎回のように出てきますが、私たちの知りたいのは、そこなんです。
どうすれば、ただ今救われるのですか?
阿弥陀様にまかせておくしかないのでしょうか?
聞法心が起きるのも、結局は阿弥陀さまのお力のようですし。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さいというフレーズで、目いっぱい、表現の限界、説明できる限界なのでしょうか?
どうか、お答えください。(質問です。さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090812/1250080410#c1250109547

「ただ今救われて下さい」は、「ただ今救わせて下さい」の阿弥陀仏の呼びかけ

回答します。
大変尊いお尋ねと思います。
結論から言いますと、「ただ今阿弥陀仏に救われて下さい」というフレーズは、呼びかけです。「ただ今助けさせて下さい」という阿弥陀仏の願心です。
ただ今救う阿弥陀仏の本願ですから、伝える立場から言えば、それ以外に言うことはありません。

どうすれば、ただ今救われるのかという点については、御文章に蓮如上人がいわれるとおりです。信心一つです。

聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。その故はもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より 往生は治定せしめたまう。(御文章5帖目10通)

信心一つの救いとは、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏より賜る一つの救いと言うことです。その信心(南無阿弥陀仏)とは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命することです。

「信心決定あれかし」と蓮如上人は御文章に書かれていますが、別の言葉で言えば「ただ今阿弥陀仏に救われて下さい」となります。
それに対して、「どうすれば?」という疑問が起きないことには、仏法の話は一方通行です。
助ける阿弥陀仏と、助けられる私があってこそ、救われた、信心決定したということになります。

阿弥陀仏からいえば、「助けるぞ」という阿弥陀仏の呼びかけに、「どうしたら?」と答えているのが私たちです。「わかりました」とは、なかなかならないものです。

信心の沙汰とは、何をすることか?

信心の沙汰とは、「どうすれば?」という疑問についての問答です。
「どうすればただ今阿弥陀仏に救われますか?」
についての疑問は、一人一人具体的に思うことが異なります。
「善ができない自分と知らされないと助からないのではないか?」
「罪悪観が深まらないと助からないのではないか?」
「念仏を称えていけば助かるのではないか?」
などなどあります。

大きな分類で言えば、自力の心に違いはありません。
自力の心を振り捨ててと、御文章に書かれています。これは、全員に共通して言える言い方であり、個々人の実感としては、自力は同じでも具体的にすがるものがらは一人一人異なるのです。
なんでもお任せと、阿弥陀仏にまかせればいいと思う自力もあれば、自分の機ばかりを責める自力もあるでしょう。学問が足りない、理解が足りなから助からないのだと思う自力もあるでしょう。

しかも同じ人のなかでも、その時その時すがるものがらは変化しますから、それに応じた話をしていかねばなりません。もちろん仏様ではありませんから、なんでもピタリとくるように話ができるわけではありません。

「自力を捨てよ」も共通の大雑把な表現。個人レベルでは表現が異なる自力

知識探しという言葉があるのも、対機説法という言葉があるのも、お聖教にはおおざっぱに「自力を捨てよ」という「自力」は、具体的には一人一人異なるからです。
その人にとってわかるように言うにも、まず、その人がどう思って、何に縋っているのかを言っていただかねば答えることもできません。

カウンセラーでも、何も聞かずにアドバイスができないのと同じです。自分の信仰を打ち出していただければ、できる限りお答えします。

名号、南無阿弥陀仏は誰にでも同じ妙法ですが、私たちの心が一人一人ことなるから、「種々に善巧方便し」と親鸞聖人はいわれているのです。

結論から言えば「ただ今阿弥陀仏に救われて下さい」ですが、「じゃあどうすれば」と疑問を具体的に起こされたところが、いわゆる求道のはじまりです。

医者が症状も聞かずに薬を処方できないように、信心の沙汰をするなら、阿弥陀仏のただ今の救いについてどう思われているかをいっていただかねばこちらも答えることはできません。ただ今救われて下さいと言う以外にはありません。

質問です。さんは、ただ今救うという阿弥陀仏の本願を聞かれてどのように思われますか?

追記。もう一つのコメントについて

上記エントリーを書いた後に、コメントを後で読みましたので、もう一つのコメントについて書きます。

単純に「後生の一大事が我が身の問題になってくれば自ずとわかります」「あなたの信仰がまだまだ進んでないからです」的な説明とかわらない感じがして、なんとも物足りないのです。
私は、山も山さんに、それを超える説明を求めているのです。(質問です。さんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090812/1250080410#c1250145053

後生の一大事が問題になったらとか、信仰が進んだらという回答は、聞いた人にしてみれば不親切な回答だと思います。

進んだらではなく、ただ今救われるのが阿弥陀仏の本願だからです。

「進んだらわかる(救われるとほぼ同義語で使用)」「進んでないから救われない」は両方間違いです。どちらもただ今の救いがないとう前提の話です。

聞き始めたばかりの人が、「今年中に信心決定したいです」といっても、「そんなわけないではないか」というような空気があるのが親鸞会という団体です。

大前提として、ただ今救われるのが阿弥陀仏の本願です。
逆に言えば、ただ今助からないことに疑問が起きる方が自然です。また、法を正しく聞いている方だと思います。

質問です。さんは、そのように疑問を起こされたと言うことは尊いことです。
ただ、「どうしたら」という内容については、個々人の感じられる内容に応じて回答いたします。
コメントでも、メールでも、電話でも結構です。