安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

どうしたらの前に、どうなりたいかが大事です(orimaさんのコメント)

orimaさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

今のままの自分をただ今救う本願に、どうしてこうしている今でも救われないのだろうと思っています。
○○したらやがて、とは思わないのですが、自分がどこを間違っているのだろう、救われた方と何が違うのだろう、と思っています。
お話を聴きにいくとどうしても、救いと善(六度万行)が関係あるように聴こえてしまい、やっぱり馬鹿になってそのような善に励んでいくべきなのか、と思うのですが、それではただ今の救いにならないなと思ったりしています。
頭でこねくりまわしているだけなのかも知れません。何かをしたらいいんだろうとも思いますが、何をしたらいいのかも分からず、そもそも何かをしたら…と思っている心そのものが間違っているのかなとも思います。
まとまらない内容でたいへん申し訳ありません。どうしたものでしょうか。
(orimaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090304/1236123876#c1236205629

結論から言いますと、教義上のことではなく「自分がどこを間違っているのだろう」というのは、「何かが間違っているから助からないのだ」という心であり、「間違いが分かればそれをただせる自分」であり、「正せば助かる自分」と思う心です。そのように助かる要素が自分の中に存在するように思う心を自力と言います。
もう一つ「馬鹿になってそのような善に励んでいくべき」といわれますが、「馬鹿になって」が何も考えなくなってでは、目的を見失ってしまいます。教えと関係を考えなくてということなら、目的がずれてしまいます。そういう意味では馬鹿になってはいけません。馬鹿になるなら、馬鹿になって本願に向かって下さい。

諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり(浄土和讃)

親鸞聖人がいわれるように、「至心発願せる」から、「往生浄土の方便の善」といわれるのであって、「馬鹿になってなんでもやる」から、「往生浄土の方便の善」といわれるのではありません。
このご和讃で言えば、「至心発願せる」が大事なところなのです。阿弥陀仏の願力によって「至心発願」させられるということなのです。至心発願とは、阿弥陀仏の19願で誓われているお言葉です。
「至心発願 欲生我国」と誓われています。
まことの心で、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいという願いをおこしてということです。現在ただ今弥陀の浄土に生まれたいという願いをおこしてということです。この心は阿弥陀仏の願力によっておこされる心です。
韋提希夫人がお釈迦様のお導きによって「なんとか弥陀の浄土に生まれたい」という心を起こしましたが、その心なのです。

大事なことは阿弥陀仏の本願に向かって、ただ今救われることです。本願に向かったときに出る心が自力なのですから、本願に向かわないまま自分の心の中に自力を探しても出てきません。
「なんとかただ今弥陀の浄土に生まれたい」という心が、「菩提心」であり、「至心発願」なのです。現在ただ今の救いを求めることが、目的なのです。その上でのどうしたらということは、前後関係が変わりやすいところなのでよくよく知っていただきたいと思います。