カウフマンさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
「わがこころにまかせずして、こころをせめよ。仏法はこころのつまるものかとおもえば、信心に御なぐさみ候う」と、おおせられそうろう。
と蓮如上人御一代記聞書にありますが、ここで「こころをせめ」るのは阿弥陀仏であると理解して宜しいでしょうか?
この言葉を知った当初は「楽がしたいという自分の心にまかせないで、仏法の説かれる場所に足を運んで無常と罪悪を問い詰めなさい」というように理解しておりました。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090829/1251549586#c1251590813
しかし、どんなに心を責めようとしても、自力の押し任せのようにしか思えません。(カウフマンさんのコメント)
回答します。
一、わが心にまかせずして心を責めよ、仏法は心のつまるものかとおもへば、信心に御なぐさみ候ふと仰せられ候ふ。(御一代記聞書47)
本当のところをいえば「こころをせめる」のは、阿弥陀仏です。
「こころをせめる」の「こころ」は自力の心ですから、自力の心を、晴らそうと責められるのは阿弥陀仏だからです。
しかし、自力で自力をすてようと頑張っているようにしか、自覚はできませんから、カウフマンさんのいわれるように自力で自力の押し任せのように感じられると思います。
このお言葉の意味は、カウフマンさんがいわれるように、自分で自分の罪悪を責めるということではありません。
「こころのつまる」というのは、自力で自力は捨てられず、とはいっても、自力がすたらねば救われずという、逃げ場のない心境を表されたものです。
とはいっても、自力で自力はすてられず、とそのままにするのは、そのままのお助けの聞き間違いです。そう思うのがは、「わがこころにまかせる」ということです。自力を捨てずに他力になることはありません。
「自力を捨てて、一心に弥陀に帰命せよ」との教えのとおり、自力を捨てて、阿弥陀仏にただ今救われて下さい。