メールで頂いた質問に答えます。
「聞いても他の人のように正確に覚えていないんです。だから、私のような者は、聞きに行ってもどれだけ意味があるのかわかりません」と、ある人に打ち明けたところ
「だから、蓮如上人は「そのカゴを水につけよ」と仰せです。私たちの心はザルのように水をすくったと思ったら、すぐに抜けてしまう。だから、常に聴聞の場に身を運ぶことが大事なのです。」
と言われました。蓮如上人の御一代記聞書にあるお言葉を読んでも、毎回参詣せよというようには書かれていないと思うのですが、どういう意味なのでしょうか?
(頂いた質問)
回答します。
結論からいいますと、コメントにでてくる御一代記聞書のお言葉は、「参詣せよ」ではなく、「信心決定せよ」との仰せです。
コメントに出てくる御一代記聞書のお言葉です。
一、人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。
(御一代記聞書88)
(大意)
ある人が、「私の心はカゴに水を入れるようなものです。法座に参詣しているときは有り難く、尊い法だと思うのですが、すぐに元の心にもどってしまいます」と心中を告白しました。
蓮如上人は、それに対して
「そのカゴを水につけなさい。わが身が南無阿弥陀仏の大宝海に入るのだ。すべて、真実信心がないことからおきることである。善知識が悪いというのは、信心がないことであり、信心のないことはけしからぬこと」と仰いました。
籠を水につけよ=信心決定せよ
ある人は、自分の心をカゴ(今で言えばザル)に例えて、カゴに水を入れるようにどれだけ水を注いでも、すこしもカゴに残らないように、どれだけ仏法を聞いても有り難い心が残りませんと訴えています。
私が今までお会いした方でも、「聞いても頭に残らないから、ダメです」とか、「若い人のように正確に覚えられないから、助からないと思います」と言われる方がありました。これもカゴに水を入れているのと同じ事です。
それに対して蓮如上人が仰った「そのカゴを水につけよ」というのは、常に法座に参詣しろと言うことではありません。環境を常に仏法に関係するところに身を置けと言うことでもありません。
別の言葉で言えば「常に念仏申す身になれ」、つまり「信心決定せよ」ということです。
カゴで水がすくえないように、私の心で、南無阿弥陀仏をとらえようとしても、とらえられるモノが私の心にはありません。だから、蓮如上人は「カゴを水につけよ」という表現でいわれました。
その直後に「万事信なきによりてわろきなり」だから、信を取れといわれています。
御一代記聞書では、ある人が「有り難く尊く思う心が続かない」といいます。
信心とは、私の心が有り難くなるではありません。私の心が尊くなるのでもありません。カゴを水につけても、カゴはカゴでなにも変化はしません。
何が変わったかと言えば、「水につけた」だけです。「水につけよ」という表現は、正信偈の以下の部分から言われているのだと思います。
帰入功徳大宝海(正信偈)
(功徳の大宝海に帰入すれば)
南無阿弥陀仏のことを、功徳の大宝海ともいわれています。そこに帰入するのだと親鸞聖人はいわれています。
覚えられないというのは、聞いて頭の中にいれた法をつなぎ合わせて南無阿弥陀仏をつくろうとしているのです。そんな合成南無阿弥陀仏では、往生はできません。
活動や、環境を仏法漬けにすればよいと思う人は、絶えず水をザルに流しているようなものです。流れてはいても、ぬけていくのは同じなので、水につけたことにはなりません。
尊く思う心は、信心獲得すれば、南無阿弥陀仏から起きるものです。私が作り上げるものではありません。
「急に救われるわけはないのだから、まずは環境から」というのは、私の理屈で、阿弥陀仏はただ今救うといわれています。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。