安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の本願は、救われたいと思わせる願ではなく、救う本願です(Ruさんのコメント)

多数コメントを頂いております。有り難うございました。
順次エントリーで書いていきますのでよろしくお願いいたします。

Ruさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ただいまと聞けど聞けど、助かりたいとか、極楽行きたい気持ちが全く出ない心です。
また、「地獄行き免れるならなんとか化土でも行けたならありがたい」、と考えてしまいます。
この心が永久に続きそうで不安です。
また、「じゃあ「今救われる」「救って下さい」と素直に受け止めれば、思えばいいんですね?」という心、思いが出てきます。ただ今、救われるとは、全く信じられません…(Ruさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090813/1250164307#c1250242085

極楽へ往きたいという気持ちが全く出ないというのは、どういう点でかということによって変わってきます。

救われたいとは思うけれども、「救われる気がしない」ということではないかと思います。
どうしても、「○○しても救われないんですが、何とか助かりたいと思います」と考えがちです。
救われたいと前向きに考えているようで、救われないのが前提で物事を考えてしまうと、本願をそのまま聞いているとは言えなくなります。
阿弥陀仏の本願は、「救う」という本願です。「真剣にさせる」でも「救われると思わせる」でもありません。

如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて 大悲心をば成就せり(正像末和讃)

阿弥陀如来の本願を作られた御心を尋ねてみますと、苦しみ悩む有情を捨てずして、南無阿弥陀仏を与えるために完成させられたと言われています。

救うというのは、南無阿弥陀仏をあたえるということです。南無阿弥陀仏を欲しいと思わせるということではありません。

必ずただ今救われると言うことがあります。