安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

説法しているのは南無阿弥陀仏(みかみさんのコメント)

みかみさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

高森会長をよく知る方に聞きたいのですが。
会長は、説法のあとの中休みのときなど、短距離走を全力で走ってきた感じではぁーはぁーと息をしていると以前、聞いたことがあります。
つまり、それだけエネルギーを消耗しているということだと思います。
そんなハードな思いをしても、なお説法をされるのは、人々に弥陀の本願を伝えたいからだと聞きました。
これは、本当でしょうか。(みかみさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090812/1250080410#c1250388705

これについては、ついでに言わせて さん、一言だけ さん 
からもコメントを頂きました。

本人がどういう気持ちだったかというのは本人ではないのでなんともコメントしようがありませんので、布教するということについて私が思うことを書いておきます。

常行大悲の益

親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われると現生十種の益を得ると言われています。9番目に、常行大悲の益があります。
常行大悲の益とは、阿弥陀仏の大慈悲心を人に伝えるようになるという利益です。

こう聞くと、阿弥陀仏に救われた人は、例外なく親鸞聖人のようにわらじを履いて、常に布教に出歩かずにおれなくなるのかと思われる方があります。信心獲得すると、怠け者でも、毎日布教に回る勤勉な人格に変わってしまうのではないかと思われる方もあります。

私も以前はそのように思っていたときもありました。
信心獲得したら、きっと大活躍できるようになるのだろう。親鸞聖人とまではいかなくても、ものすごい活動的な人間になり、辻説法でもして叫び続けるような人になるのだろうと思っていました。

阿弥陀仏の本願の救いとは、何か私の人格を変えるというものではありません。煩悩具足の凡夫は、救われても煩悩具足の凡夫であって何もかわりません。
救われるとは、別の言い方をすると阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を賜る事なのです。南無阿弥陀仏を阿弥陀仏より頂いても、頂いた私自身は何もかわりません。

現生十種の益は南無阿弥陀仏のお徳

現生十種の益は、南無阿弥陀仏の功徳であり、南無阿弥陀仏の利益をいわれたものです。
一部分を取り上げて言えば、冥衆護持の益(諸神にまもられる)も、諸仏護念の益(諸仏にまもられる)も、諸仏称讃の益(諸仏がほめたたえる)も、全て、南無阿弥陀仏の六字のことなのです。
阿弥陀仏が作られた名号は、諸仏が褒め称え、諸仏、諸神が守られているものです。煩悩具足の私をほめているのではなく、機法一体となった南無阿弥陀仏をほめておられるのです。

説いているのは南無阿弥陀仏であって、人ではありません

常行大悲の益に関して言えば、常に大悲を行じておられるのは、南無阿弥陀仏の六字の働きです。実際に人に法を伝えているのは、私ではなく、南無阿弥陀仏が伝えているのです。私は南無阿弥陀仏に動かされているに過ぎません。

その人尊からずして説く法尊しという言葉もありますが、説く人を例に挙げて言えば「説く人尊からずして、説かせる法(名号)尊し」というところです。
法を全力で説いているといっても、説いている人の人格や性格が説いているではないのですから、尊いと思うのならば、説かせている南無阿弥陀仏こそ尊いのです。
一人でも、信心決定あれかしと、念じ続け動き続けておられるのは、南無阿弥陀仏であって、人ではありません。

ただ、人に法を伝えることを使命とし、仕事とするならば、きちんと法を伝えるように勉強しなければなりません。いくら南無阿弥陀仏が法を伝えようとしても、実際に動く人が仏教の言葉もよく知らないのでは、正しく伝えることはできません。