安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

どれだけ罪悪を実感しているかは、阿弥陀仏の救いとは関係ありません

罪悪感に深さというものがあるならば、(略)何もないというか浅いのです。(仏法聞いていない人よりも浅いかも…)こんな状態で本当に大丈夫でしょうか?今信心決定できる対象に入ってるのでしょうか?阿弥陀仏の見抜かれた自己とあまりに隔たりがあるのに、本当に信心決定出来るのでしょうか?(頂いた質問より抜粋)

回答します。
阿弥陀仏の救いとは、阿弥陀仏がされる救いですから必ず阿弥陀仏に救われます。信心決定の身に救われます。
罪悪観についての実感は、個々人で差があり、どれだけ実感できるかという、実感の量で阿弥陀仏に救われる、救われないという差別はありません。
そういう意味で、善悪は問題ではありません。

抑、その信心をとらんずるには、更に智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行を捨てて正行に帰するをもって本意とす。(御文章2帖目7通)

信心決定するには、智慧も才覚も必要条件ではありません。金が有るとか無いとか、善人であるとか悪人であるとか、性別も関係有りません。ただもろもろの雑行を捨てて阿弥陀仏に帰命することであるといわれています。

実感としての罪悪観というのは、一個人でもいろいろ変わるものです。子供の時の罪悪観と、大人になってからの罪悪観はことなります。大人になったと言っても、仕事の変化、人間関係の変化などによって実感はことなります。

他人と比べて言えば、「私はこれだけ自分を悪い者と思えた」といっても、もっと深く自己を見つめている人もいるでしょうから、どこまでいってもキリがありません。

「まだ悪が知らされないから救われない」というのは、罪悪の実感の深さを他人や、過去の自分と競争するようなものですから終わりがありません。
「どれだけ罪悪を感じているか」という違いは、阿弥陀仏に救われるかどうかということから言えば、顔や性格の違いと同じです。

顔の善し悪しで阿弥陀仏の救いは決まりません。性格の善し悪しで阿弥陀仏に救われるか、救われないかは決まりません。
実感としてどれだけ罪悪を感じているかは、それらと同じです。阿弥陀仏の救いとは関係ありません。

もし関係あれば、阿弥陀仏の救いを自分で作り上げていると言うことになります。

阿弥陀仏の見抜かれた自己といっても、仏様の眼から見られた私と、私が私の目で見る自分(罪悪観)は、同一にはなりません。

必ずただ今弥陀仏に救われることがあります。ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。
問題にするのは、罪悪ではなく、もろもろの雑行を捨てて弥陀に帰命することです。