安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心決定するために必要な方便というものはあるのでしょうか。」(セイウチさんのコメント)

セイウチさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

真宗において、信心決定するために必要な方便というものはあるのでしょうか。聞法が方便だろうかと考えたりしますが…。(セイウチさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110517/1305607901#c1305644025

コメントで使われている「方便」は、「方法・手段」ということで使われているのだと思います。
「信心決定するために必要な方便」はありません。阿弥陀仏が私を救うために、私にやってもらわねばならない事、用意しなければならないものはありません。
信心決定のためにこちらで用意する何かがあるとすれば、用意できない人は救われないことになるからです。

聞法については、聞法は方便としていわれたものではありません。多く聞いた人が助かるとか、一回聞きに行ったくらいでは助からないといった、聞きに行く行為そのもので救われるのではありません。

真宗の聞法は、南無阿弥陀仏のいわれを聞くことです。自力を捨てて他力に帰することが、聞くと言うことです。ですから、聞法の勧めとは、「ただ今救われなさい」の勧めです。獲信の方法や条件として勧められたのではありません。「聞きなさい」は、「仏願の生起本末を聞きなさい」であって、「聞きに行きなさい」と手段を勧められたのではありません。

さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(御文章3帖目2通・浄土真宗聖典(註釈版)P1137

阿弥陀仏は、「救われるためにまず、○○をしなさい」とはいわれません。「ただ今救う」と呼びかけられているのが、南無阿弥陀仏の六字のこころです。
「ただ今救う」の本願を、そのまま聞いたのが「ただ今救われた」ということです。
阿弥陀仏が「ただ今救う」と呼びかけられているのに対して、「ただ今救う方法は
何でしょうか?」と聞き返しているのは、聞いているとはいいません。

「ただ今救う」本願を、ただ今聞いて救われて下さい。

おまけ


エントリーを書いていて、金子みすゞさんの詩を思い出しました。
如来の善巧方便のことだと思って読むと有り難いです。
また、阿弥陀仏と私の対話であり、自力の計らいと、その後の懺悔と思って読むと味わい深いです。