安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自力を捨てて弥陀をたのむか、弥陀をたのみて自力を捨てるか(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

御文章に「雑行・雑修・自力の心を振り捨てて」とか「自力なんどいう悪き心を振り捨てて」などどあるので、阿弥陀仏の救いに預かろうとした時、どうして気になる言葉です。「救われるか、救われないか」の、信・不信が問題だと毎回御教示頂いておりますが、自力という言葉を概念として理解しようとする(とらわれる)ことは、我身の獲信にとってよくないということでしょうか?
また、自力という事を一切意識上気にしないままで、救われるという事が可能でしょうか?
教えて下さい。(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091009/1255097531#c1256764787

回答します。
自力と言う言葉を概念として理解することは、大事です。親鸞聖人が、自力とはこういうものであると解説されています。しかし、それ以上に何かを知らねばならないということがあるのではありません。

自力を捨てるとは、他力に帰することです。

自力を捨てるとは、自力を知って、よくよく分かることではありません。阿弥陀仏に救われることです。
捨自帰他ともいわれますが、自力を捨てることが、他力に帰することであり、他力に帰することが自力を捨てることです。
「自力をすてて弥陀をたのむ」と書いても、「弥陀をたのみ自力をすてる」と書いても同じ事です。
御文章には、「自力を捨てて弥陀をたのめ」と書かれる場合が多くありますが、親鸞聖人のお言葉でいえば、前後を逆に書かれているところもあります。

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ(唯信鈔文意

コメントをされた御文章について、前後を紹介します。

さればその信心というは、いかように心を持ちて、弥陀をば何とようにたのむべきやらん。それ信心を取るというは、ようもなく、ただ諸の雑行・雑修・自力なんどいう悪き心をふりすてて、一心に深く弥陀に帰する心の疑なきを真実信心とは申すなり。(御文章5帖目15通

「雑行・雑修・自力なんどいう悪き心をふりすてて、一心に深く弥陀に帰する心の疑いなき」を真実信心と言われています。
雑行・雑修・自力をふりすてるには、「ようもなく、ただ」と言われています。よく知りなさいとはいわれていません。

また、この御文章で言えば「信心」について「どのように心をもち、阿弥陀仏を何とようにたのむのか」ということについての答えです。
「どうすれば救われるのか」ということであって、「どうすれば自力が分かりますか」ということではありません。
自力の心の概念の定義づけにとらわれると、阿弥陀仏に救われる為なのか、自力を知るためなのか、混同してしまいます。

どうしても自力がわからねば、捨てられないはずというようにとらわれる心があるのでしたら、「一心に深く弥陀に帰する」ように心を変えることが大事です。
「弥陀に帰する」も「自力を捨てる」も同じ事だからです。

「自力が分からねば助からない」「自力が分からない私は助からない」ということが、悩みになるのでしたら、それは一度横に置いて、阿弥陀仏をたのんで下さい。阿弥陀仏をたのめば自力は廃ります。
向き合うのは、阿弥陀仏であって、私の心ではありません。ただ今阿弥陀仏に救われます。