安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

往生は一人一人のしのぎとは、一人一人に阿弥陀仏が願を建てられたということです。

阿弥陀仏に向かっていても、救われる人と救われない人がいるのではないかと思ってしまいますが、どうでしょうか?(頂いた質問)

回答します。
この世に、阿弥陀仏に救われる人と救われない人と二種類の人間がいるのではありません。一人一人が、既に阿弥陀仏に救われたか、まだ救われてないかの違いがあるだけです。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人が為なりけり、されば若干の業をもちける身にてありけるを、助けんと思召したちける本願のかたじけなさよ。(歎異鈔)

阿弥陀仏の五劫思惟の願をよくよく考えて見ると、ひとえに親鸞一人が為であったと、歎異抄に書かれています。
阿弥陀仏に救い取られて親鸞聖人が「私一人を助けるための本願であった」と言われているところですが、これは弥陀に救われた人だけがこのように感じられると言うことでは有りません。

実際に、阿弥陀仏は一人一人を助けるという本願を建てておられるからです。本願に十方衆生とありますから、数え切れないほどの衆生を救うという願を建てられたように思い、その願に救われる人も救われない人もあるように思われる人もあります。

どこかの法話会場のように多くの人がいて、回り中の人が阿弥陀仏の救いを求めている、しかも自分より真剣に求めている人ばかりだというように思うと、阿弥陀仏に救われるとしても、この人の方が先だろうと思われるでしょう。
しかも、自分より真剣に求めているように見える人が、まだ救われていないと聞けば、真剣な人がまだなら、自分は少なくともその人より後だから、生きている間は無理ではないかと思ったりします。

しかし、南無阿弥陀仏は、オリンピックの金メダルでもなければ、宝くじの1等でもないのです。金メダルなら、その競技で1位にならないともらえません。宝くじも、決まった数の人しかあたりません。30本の当たりくじがあれば、30人当たりが出れば、自分が当たると言うことはありません。

仏法のことは急げ急げと言われるのは、宝くじのように急がないとあたりが全部出てしまうということではありません。先着順でも、真剣な順でもありません。

南無阿弥陀仏は、金メダルと違い、一人一人に阿弥陀仏が用意をしておられるものです。だから、蓮如上人は、このようにいわれています。

往生は、一人一人のしのぎなり。一人一人に仏法を信じて後生をたすかることなり。(御一代記聞書)

往生は一人一人のしのぎですから、真実信心を獲得することも一人一人のしのぎです。隣の人が救われた、あの人がまだ救われていないと思っても、関係ないことなのです。
自分一人のための本願ですから、私一人のための南無阿弥陀仏なのです。「一人がため」を別の言葉で言えば、自分専用といっても差し支えはないと思います。自分専用ですから、隣の人が救われたとしても、その人の南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から頂いたのであって、私には私専用の南無阿弥陀仏があるのです。一人一人のしのぎですから、救われる人と救われない人と二通りの人が有るのではありません。