安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

救われる「道」はありません(頂いた質問)

阿弥陀仏は本願を建てられ、救われる為の道を教えられたとあるところで聞きました。そうすると、その「道」を進まねばならないと思ってしまいます。(頂いた質問)

阿弥陀仏が本願を建てられたのは、私が生死を離れ浄土往生させる為でした。
しかし、どれだけ素晴らしい浄土を建てられても、道を造ればその道を進めない人は、浄土に往けないことになってしまいます。
家の中のわずかな段差でも、体が不自由になればそれに躓いてしまうので、最近ではバリアフリーの住宅も増えています。まして、何かの「道」となれば、距離やその道の険しさによって進める人も、進めない人も出てきます。

阿弥陀仏は浄土は私で造ったから、そこまでは自分の足で来て下さい、道路もちゃんとつくりましたからという仏様ではありません。
自らよりそって、必ず連れて行くぞと働いて下さるのが南無阿弥陀仏です。現在阿弥陀仏の本願を聞かれている方は、道を自ら進むのではなく、南無阿弥陀仏の仰せを聞くばかりです。

前日に書いたエントリーの追記として書きます。
救われるのに「道」があると思えば、その道をどうやって進むか、どれくらいの距離があるのかという事が必ず問題になります。
親鸞会では、道を「横の線」と言い、その横の線をさらにに分割して、「19願の道」「20願の道」をとおって、ゴールの「18願」に出ると教えています。
毎年正月に放送される箱根駅伝のように、「1区」「2区」のように、区間があり、そこを走り抜けないとゴールはできないかように教えられています。

しかし、そのような区間はありません。道もありません。
「八万四千の仮門」とか、「万行諸善の仮門」「善本徳本の真門」といわれるように、「門」はあります。門とは教えのことですが、文字通り「門」であって、長い道ではありません。
しかし、そのいろいろな門は、阿弥陀仏の18願を除けば、どれも、それなりの敷居の高い門です。誰でも通れる門ではありません。
末法の今日は、阿弥陀仏の本願以外に通る門はないと、親鸞聖人はご和讃で教えておられます。

本師道綽禅師は
 聖道万行さしおきて
 唯有浄土一門を
 通入すべきみちととく(高僧和讃55・註釈版聖典P588)

唯有浄土一門・・ただ浄土の門のみ入るべきみちといふ(異本左訓)

聖道門の教えによって納める自力諸善の門は、末代の私にはとても開くことができない門です。
また、19願の万行諸善の仮門や、20願の善本徳本の真門も、私にとってはとても敷居の高い門です。

一行も納めることができない者が通れる門は、阿弥陀仏の18願の門以外に有りません。老少善悪賢愚を選ばれないのは、阿弥陀仏の18願だけです。
19願の「万行諸善の仮門」を通れた人だけ通れる門ではありません。逆に、万行諸善の仮門も、善本徳本の真門も自ららの力で開けることができない凡夫に、阿弥陀仏の方から開いて下さる門が、阿弥陀仏の18願です。