安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心の沙汰とはどういうことか?

信心の沙汰とは何でしょうか?信心の沙汰が大事と言われていますが、具体的に何をするのかよくわかりません。(頂いた質問)

回答します。信心の沙汰とは何をするのかと言うことを、蓮如上人は御文章にこのように書かれています。

一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて、「わが信心は・ひとの信心は如何あるらん」という信心沙汰をすべき用の会合なるを、近頃はその信心ということは、かつて是非の沙汰に及ばざるあいだ、言語道断あさましき次第なり。所詮、自今已後は、かたく会合の座中に於て、信心の沙汰をすべきものなり。(御文章1帖目12通・年来超勝寺)

「我が信心は、ひとの信心は如何があるらん」というのが、信心の沙汰であると言われています。
大事な事は、「信心」についての沙汰であって、それ以外の話をしているのは、信心の沙汰とはいいません。
こういうと、「未信の私には、信心の沙汰と言ってもできません」とか「ひとの信心はわからないから言えません」という方があります。
「我が信心はいかがあるらん」というのは、「信心決定した人(と思っている人)が、自分の信心を人に尋ねる」ことばかりではありません。
自分は未信であると思う人ならば、「どうして自分は信心決定できないのだろうか?」と人に話をすることも、信心の沙汰になります。
ここでいう「信心」という言葉は、阿弥陀仏に救われてない人にあてはめると、「救われる」という意味で沙汰をすることになります。
たとえば、「自分は○○○だから救われないと思っています」「もっと○○○になったら救われると思うのですが・・」このように言うことが信心の沙汰となります。教義上の是非、話題にはなりますが、そこに信心(自分の救い)と切り離しては、信心の沙汰ではなく、「罪の有る無しの沙汰」となっていまいます。
また、聞き誤りを正すという人もありますが、信心について聞き誤りを正すのならば結構ですが、「記憶違いを正す」ためにやるのならば、全く意味のないことです。

沙汰とは、蓮如上人がいわれるように「是非の沙汰」ですから、それで良いのか悪いのかということを論じることになります。
ですから、「結局頑張るしかない」という結論ありきでは、沙汰にはなりません。結論がきまっているのならば、論じること自体が無意味になってしまうからです。
結論ありきで話をしていれば「かつて是非の沙汰に及ばざるあいだ言語道断あさましき次第なり」と言われているとおりです。