安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

権仮方便である19願は私にとって必要かどうか(権兵衛さんのコメント)

権兵衛 さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

善の勧めは、相手に応じては仮に設けられたものですが、最後は捨てねば真実に入ることはできません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110222/1298377356

とありますが、親鸞会的に言うと救われるまで(最後まで)は廃ってないのだからお勧めの通りやらねばならない、みたいなことになりそうですね。

権仮方便である19願は、弥陀の救いを求める様になっていれば既に捨てた状態だと思って良いのでしょうか?

欣慕浄土の善根と言われているのでそうだと思うのですが、上手く頭が整理できていない状態です。(権兵衛さんのコメント1)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110222/1298377356#c1298384676

仰るとおりで、「南無阿弥陀仏による救い」を求める人にとっては、19願はすでに捨てた状態といってよいのです。
どうしても「自分で修行をしなければいけないはずだ」と固く信じて疑わない人も見捨てられないために建てられたのが19願です。
元よりそんな修行も出来ないと自覚されている方にとっては、19願はいくら「十方衆生」と説かれていても、「私のための願」ではないのです。
また、100%すべての人を救うのが阿弥陀仏の本願ですから、「○○の善をしたら」と条件をつけた時点で、すべての人を救うことができません。
そこで、菩薩ではない末代の凡夫である私は何によって救われるのかというところが大事なところです。

末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。(御文章5帖目1通・末代無知・浄土真宗聖典(註釈版)P1189

「末代の在家で生活をしている男女」といえば、現在の真宗の話を聞いている人はすべて当てはまることです。この私に対して、「善をせよ」と蓮如上人は一言も書かれていません。
「こころをひとつにして阿弥陀仏を深くたのめ」「余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへ」と申す者は、必ず阿弥陀如来は救ってくださると言われています。
「余のかたへこころをふらず」とは、他の諸仏も入りますが、お尋ねの趣旨からすると、「他の善が救いの助けになる」と思う心を捨てよということです。

同じ事なのですが、選択本願念仏集に
「まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。」
と書かれ、“随自の後には”とありますが、“随自の後”とは随自意の願に救われた後という意味だけか、
または随自意の願の救いを求める状態の事も含まれるのか、どのように理解すればよろしいでしょうか?(権兵衛さんのコメント2)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110222/1298377356#c1298384676

「随自の後」というのは、救われることだけではありません。第18願によって救われようと思われた人も当然そこに含まれます。
南無阿弥陀仏一つの救いと、諸善に励んで臨終来迎は絶対に両立しません。
南無阿弥陀仏一つに救われようと思う人にとっては、善を励んでどうにかしようということは、自分にとっては関係ない話になります。

極端なことを言えば「弥勒菩薩がたいへんな修行をしているから」といって、全員がやる必要がないのと同じ事です。人間にはできることとできないことがあります。
すべての人を浄土往生させ仏にさせるために建てられたのが第18願であり、南無阿弥陀仏です。
「善巧方便」によらねば、真実信心を獲得することはできません。しかし、「権仮方便」は、捨てねばならないものを明らかにすることによって、真実を知らせるものです。親鸞聖人が化身土巻に19願、20願のことを書かれるのも、いわば「悪い例」です。「こうしてはならないぞ」という注意書きをされることによって、前に書かれた真実でなければ救われないことを明らかにされたのです。
「方便を通らねば真実には入れない」という親鸞会がいつもいうフレーズは、「19願を通らねば真実信心はえられない」という意味ですから、これは全く間違いです。
「南無阿弥陀仏に依らねば、真実信心はえられない」という意味でいうと正しくなります。
「方便を通らねば」の方便が、阿弥陀仏の御心から考えれば、「善をせよ」ではないことは分かられるのではないかと思います。