安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

同じ所をグルグル回る理由(Rudelさんのコメント)

Rudelさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「変わらないはずの自分の心を一生懸命変えようと頑張っていくと、阿弥陀仏の本願に心がかからなくなります」
「力んでみたり、もうわからんとなるのは、自分の心に振り回されているのです」
このお言葉、まさに僕の姿だと思います。
どう信じたら、どう心をかけたら、どうしたら、と、同じ所をグルグル回っている状態です。
ただ今阿弥陀仏にすくわれると毎回教えていただきますが、「現に今、すくわれていないのに…これは一体、どういう今なのか、どうなった今か」「阿弥陀仏は、どうせよと仰っているのか」とすら考えてしまいます。
どうしたらよろしいでしょうか。(Rudelさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090713/1247484668#c1247487201

回答します。Rudelさんの書かれていることは、よくわかります。
Rudelさんに限らず、このブログにコメントを下さる方の悩みはどれも尊い悩みだと拝しております。
阿弥陀仏の救いを求めていくと同じ所をグルグル回っているような感じになると思います。
なぜそうなるのかを少し考えてみました。

阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を廻向してくださり、それに対して私は信順し(たのむ)、名号を受け取るのが他力の信心のすがたです。

これに対して、本願を信順し、阿弥陀仏をたのむとはどういうことか、「それにはまずどういう心にならねばならないか」と、自分の心の動静に心が向いてしまうので、自分の心で自分の心を見ればどうなるかというと、ちょうど鏡あわせのように、どこまでいっても終わりがありません。

Rudelさんのコメントの文章を使えば
「どうなった今か」→「どうにかならねばならない」→「どうしたら救われるのか」→「どうなったらいいのだろう」→「どうなった今か(最初に戻る)」
となります。

阿弥陀仏は何かを要求されているのかといえば、凡夫に何も要求はされていません。要求というのは、往生の足しになる行ができる相手にいってこそ意味があることです。往生のたしになるような行が一つもないものだからこそ、名号を作られたのだと親鸞聖人はいわれています。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。(教行信証信巻)

無始からこのかた清浄の心もなく、真実の心もない私だから、阿弥陀仏は兆載永劫の行をなされたのです。
「なぜ阿弥陀仏によらねばならないのか」という人には、「自分の心を見つめなさい」ということも必要だと思います。
しかし、「自分の心をどうにかしなければ助からない」という人には「阿弥陀仏をたのみなさい」と勧めます。
「自分の心を深く見つめて、何かがわからねば助からない」というのは、誰が言っているのでしょうか?親鸞聖人はそのように教えてはおられません。
自分で自分に弥陀の救いに対する条件付けをしているのです。思い込みともいいますが、それも一つの自力の計らいです。
どうしたら助けてもらえるかと阿弥陀仏に直接訪ねてみれば、そのまま救うというのが阿弥陀仏です。心をどうにかしろと本願に誓っておられません。

「諸々の雑行を投げ捨てて一心に弥陀に帰命」することが大事です。