安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

そのまま救うのそのままとは何か(orimaさん、メールで頂いた質問)

orimaさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「そのまま救う」の「そのまま」が分からないです(何もしないということでもないと思いますし)。

自分が何を間違っていて救われないのか分からないです。

これも自分の心の動静に目が向いているのでしょうか。(orimaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090714/1247565741#c1247609394

同様の件で、メールを頂きましたので、あわせてエントリーいたします。

そのままとはどうなったそのままか?
助かろうとする心は雑行だから捨てよとおっしゃるが、、、
(略)
どうすれば、今、助かるのだろうか?(メールで頂いた質問より抜粋)

この件について、ひろみさんからもコメントを頂きました。有り難うございました。
回答します。
何か間違っているから助からないのではありません。間違っていて救われないとは、今の自分でない別の自分に変化を遂げなければ助からないということになります。変化を遂げるための方角が間違っているから助からないということになります。
阿弥陀仏の本願の相手は、現在ただ今の私です。救われるのも、現在ただ今の私です。救われたとたんに、現在ただ今の自分が、過去の自分では無い別物になってしまうのではありません。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。(歎異抄18章)

親鸞聖人が、阿弥陀仏の五劫思惟された本願をよくよく案じてみると、ひとえにこの親鸞一人を助けるための本願であったと言われています。orimaさんでいえば、現在のorimaさんを助けるという阿弥陀仏の本願です。メールで質問された方でいえば、貴方自身を助けるという阿弥陀仏の本願です。

十方衆生とのお約束と聞くと、どうしても政治家が国民と約束をするとか、会社が顧客の皆様と約束をしますというように受け取るのかも知れません。

弥陀の本願は、みなさんとの約束ですが、西方十万億の仏土を越えたところから、約束をされているのではありません。たとえて言えば、直接家を訪ねてきて、面と向かって「貴方を必ず助けて見せます」という約束なのです。
「申請したら助けます」でも「資格を取得したら助けます」でもありません。
「どうなったそのまま」ではなく、「そのまま」なのです。

何が変わるかといえば、「どうなったそのままか」という法に対する疑いの心を捨てるのです。

たとえて言いますと、医者からもらった薬でも、医者を信用しなければ、飲めません。「本当に効くのだろうか」という心は「医者は本当にちゃんと私の病気を診てくれて、わかってくれたのだろうか」と思う心です。自分自身の病気に対する疑いよりも、医者に対する疑いがあれば、治る薬があっても飲めなくなります。
医者と患者なら話し合いもできますが、阿弥陀仏と私では話し合うこともできません。しかし、私が一方的に阿弥陀仏を疑っているから、南無阿弥陀仏が受け取れないのです。

自分の心にとらわれるというのは、裏返しますと法に対する疑いからくるものです。阿弥陀仏の本願を疑う自力を捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。