安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

素直にわかりましたと素直になれるから助かるのではありません(orimaさんのコメント)

orimaさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

どうしたら与えるといわれる行を、素直にわかりましたと受け取れるのでしょうか。

南無阿弥陀仏を頂こうと力んでみたり、もう分からんとなってみたり、繰り返しているような感じです。(orimaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090712/1247397060#c1247456868

回答します。
素直に受け取るというのは、「素直にならねば受け取れない」と言うことではありません。言葉で書くといろいろと誤解をされるところです。
「素直に受け取れ」と聞けば「素直にならねばならない」とか、「素直でないから受け取れない」とどうしても考えてしまいます。そうなると、阿弥陀仏に救われた人は皆素直な人であるということになります。
信前信後、私の姿はかわりません、素直でない者は救われても素直ではないのです。

南無阿弥陀仏に向かっていく場合も、orimaさんのコメントを見る限りでは、自分の心を変えよう変えようとしておられるように思います。
自分の心をなんとか変えなければ助からないというのは、すべての人を救うという阿弥陀仏の本願を、「素直に」受け取っていないのです。
自分の心を見つめる心は大事な事です。しかし、変わらないはずの自分の心を一生懸命変えようと頑張っていくと、阿弥陀仏の本願に心がかからなくなります。

先ず、当流の安心の趣は、あながちにわが心の悪きをも、また妄念・妄執のこころの起るをも、止めよと云うにも非ず。(御文章1帖目3通・猟漁)

上記の御文章に、「妄念・妄執のこころの起るをも、止めよと云うにも非ず」といわれているのは、「素直にならねばならない」「執着の心を離れなければならない」という心を離れなさいということです。
力んでみたり、もうわからんとなるのは、自分の心に振り回されているのです。一心に阿弥陀仏に帰命することが大事です。
ただ今阿弥陀仏にすくわれることがあります。