安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

私とはなにか(papaさんのコメント)

papaさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

南無阿弥陀仏と一体になる私(信念冥合の機法一体の機)とは、どんな私でしょうか?
このようにお尋ねしている私(意識)とは違うものでしょうか?(papaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090625/1245932609#c1246095881

これについては、蓮如上人の御文章に以下のように教えておられます。

更に一念も本願を疑う心なければ、辱くもその心を如来のよく知ろしめして、既に行者の悪き心を、如来のよき御心と同じものになしたまうなり。
この謂をもって、『仏心と凡心と一体になる』といえるはこの意なり。(御文章2帖目10通・夫れ当流聖人・仏心凡心)

行者の悪き心を、阿弥陀如来のよき御心と同じものにして下されるのだといわれています。それを「仏心と凡心と一体になる」のだと言われています。
一体になる機というのは、阿弥陀如来が救うと言われている機ですが、どこまでが私なのかというのはそのあたりは分かりません。
自覚の上から言えば「私を救って下された阿弥陀仏」といっている「私」が、「救われた」と言っているのですから意識が入るのは間違い有りません。
ただ、生まれた時に生じる「自我」というものをだけを救うというのであれば、十劫の昔に本願を建てられたときにその「私という自我」は無かったわけですから、本願のお目当てそのものではないということになります。煩悩具足の凡夫を目当てに建てられた本願ですが、煩悩と意識はどう違うのかと言うのは宗派・学問により解説が違うので私もよくわかりません。
ただ、意識=自力ということではありませんので書いておきます。

救われるとか、一体になるというのは、その凡心が変化するということではありませんので、御文章には続けて

これによりて、弥陀如来の遍照の光明の中に摂め取られまいらせて、一期の間はこの光明の中に住む身なりと思うべし。(同上)

と言われています。ただ今阿弥陀仏に救われると、阿弥陀仏の光明におさめ取られ死ぬまでそこから離れない身になるのだと言われています。
一体というのは、阿弥陀仏の光明におさめ取られて、捨てられないわけですから、papaさんが質問される意図を推察しますと、分類はあまり意味が無いと思います。私という意識だけて光明におさめとられるわけでも、それ以外の場所だけおさめとられるわけでも無いのですから。